カナダの英雄テリー・フォックス by サンダース宮松敬子(2011年11月)
(2000年5月6日に、当時あったNYの日系誌OCSNEWSのコラム「カナダ便り」に、以下の原稿を送りました。今から11年前になりますが、『思い出記事』としてケートリン・グリフィスの記事と共に掲載します)
国民的な英雄
時代や分野で異なることを承知で「国を代表するヒーローを一人だけ挙げよ」と言われたら、アメリカ人なら一体誰の名前を掲げるだろうか。
一方これと同じ質問をカナダ人に向けたら、おそらく十中八九はガンで片足になったランナー「マラソン・オブ・ホープ」と呼ばれた『テリー・フォックス』と言うに違いない。
彼は1980年の春に、カナダ東端のニューファンドランド州の首都セント・ジョーンズから、義足をものともせず、この広大な国の横断マラソンに挑んだ若者だ。目的は、ガン研究資金設立のための寄付金集めであった。
4月半ばのその日は、まだ春浅い肌寒い日だったが、市長をはじめとする関係者が集まって彼の出発を祝った。市長から贈られた赤いロープを肩にかけ、はにかみながら短いスピーチをした若者は、その時まだ21歳の大学生であった。ロープとランニングシャツの組み合わせが、皆の目に奇妙に映らないかと気になってナーバスだったと言う。
セント・ジョーンズ市はカナダの一番東の州都であることから、多くの人が、それぞれの目的や趣旨を持ってここに来て、国土横断の出発点にする。それは自転車であったり、車椅子であったり、徒歩であったりさまざまだ。出発に当たっては、誰もが、その一歩や一輪を踏み出す前に、必ず港で大西洋の海水に脚を浸す。テリーもその例外ではなく、義足を塩水につけて長い旅程の無事を祈った。
しかし若いとは言え、何といっても右足は膝上15センチからの義足であり、何千キロもの長距離マラソンに堪えられるかと廻りの人は一様に心配したものだ。だが、テリーの駆け足は予想以上に力強かった。出発地点で一緒に郊外まで走行する予定だったある50代の女性は、彼の早いスピードに追いつけず、途中で同行の車に飛び乗ったという。
寄付の目的額は最初100万カナダドルの予定であった。だが利き脚に力を入れて、ピョンピョンと飛び上がるような姿で、ハイウェーをただひたすら走り続ける姿がマスコミの話題になるにつれ、彼の想いに感動した人々の輪が広がった。行く先々で10ドル、20ドル紙幣を差し出す人が増え、目標額をすぐに一千万カナダドルにすることが出来た。
継続される意思
テリーがこのマラソンを計画したのは18歳の時だった。骨肉腫という治療不治の腫瘍が右足に発見されすぐに切断したものの、その後入退院を繰り返すことになった。彼はその時、もっと研究費があれば助かる命もあるのではと思い立ったのだ。
しかしこのマラソン・オブ・ホープは、国土横断という雄大な計画を終了するは出来なかった。出発点からほぼ5300余キロを踏破した143日目で、オンタリオ州の北方にあるサンダー・ベイという街に到着した時、ガンの肺への移転が発見されマラソンを断念。すぐに入院したが、翌年の6月28日に22歳の若い命を終えたのである。
この時すでにテリーの行動は世界の人々が知ることとなり、その意思に賛同した58カ国の人々からの寄付があった。
こんな途方もない計画を実行に移した勇気は「どんなことでもその気になれば可能だ」という思いを皆の胸に刻んでくれた。「その行動力は国の歴史に残る偉業だ」と讃えられたことに異議を唱える人はなく、生存中にオーダー・オブ・カナダ(カナダの勲章)を授与されたが、歴代の受賞者の中で一番若かった。
サンダー・ベイ市で没したテリーの希望は、その後誰か一人がブリティッシュ・コロンビア州まで完走するに止まるのではなく、彼の意思を引き継ぎ末永く運動が継続することだった。
現在基金の事務所は彼の両親や兄弟たちが維持しており、毎年9月の第二か第三週目の日曜日を「テリー・フォックス・ラン」と定め、国の内外で寄付金集めのマラソンが繰り広げられている。
春になると必ず思い出される勇気あるカナダの一若者のヒューマン・ストーリーである。
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