北国でパパイアは育つか?by 嘉納もも・ポドルスキー (2013年10月)

カナダに移り住んだのは26年前、カナダ人と結婚して21才と18才の息子がいる私は、しばしば若い日本人移住者のお母さんたちから「子供に日本語を教えるにはどうしたらいいですか?」と聞かれる。そんな時、私は「カナダで日本語?北国でパパイアを育てるようなもんですよ」と答えるのである。

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日本語というマイノリティ言語を、英語が主流であるカナダで子供に教え込み、なおかつそれを保つのは至難の業である。寒いところでトロピカル・フルーツを栽培するがごとく、よっぽど良い温室があり、綿密な温度調節、肥料、太陽光線などを備えなければ不可能である。しかもその温室を管理するのは親だけ、となると、のしかかる重圧は計り知れない。

言語学の専門家や、日本語継承学校の先生方は、その孤独で厳しい作業を「親が努力すればできる。そしてその結果、バイリンガルの子供が育つ」と励ます。しかし逆に考えれば、途中でくじければ、あるいは完璧に日英バイリンガルの子供が育たなければ、それは親の努力が足りなかったからだ、ということにならないだろうか。

言語学ではなく、社会学が専門の私としては、その考え方にはちょっと同調できない。

次世代にマイノリティ言語を伝えるのが難しいのは、何も日本人の移住者に限ったことではない。アメリカでもカナダでも、移住して三世代目までには、たいていのマイノリティ言語は継承率が激減する事が証明されている。

異なる文化背景の者同士が結婚した場合、その傾向がさらに強くなるのは当然だろう。カナダに来ている日本人女性の過半数は国際結婚をしており、母親一人が、英語環境の中で子供に日本語を保持させようと涙ぐましい努力をしているのである。

そこで私は「北国でパパイア…」の例えを出して、お母さんたちに肩の力を抜いてもらうのである「不自然なことなのだから、難しくて当たり前ですよ」と。

断わっておくが、私は日本語の継承をはなから諦めろ、と言っているのではない。日本語を話している時が一番、自分らしさを表現できると思っている母親にとって、その言語を子供と共有できるのは大きな喜びである。そのためには大いに日本語教育に力を入れれば良い。

picture-001ただ、子供に継承される日本語のレベルについて、どの程度のものを求めるかはよく考えるべきだと私は思う。

比較のため、すでに成人したお子さんをお持ちのお母さんたちにお話を聞いた。それによると、カナダでこの先ずっと生きていくと考えている家庭では、「日本語をいかに完璧に保ったか」よりも、「親子間のコミュニケーションをいかに取るのか」に重点を置いていたことが印象的だった。

「日本語と英語をチャンポンにしてはいけない」と言語学者たちはよく注意するが、多くの家庭ではまさにそのミックス状態でのコミュニケーションが行われていることを知った。果たしてそれは「いけない」のか?「正しい、正しくない」の基準は誰が決めるのか?

また、世代を超えて継承されるのは言語だけではなく、他の側面もあることを忘れてはいけない。日本という国や、日本の食べ物、文化などに愛着をもつことによって、カナダで育つ子供は日本とのつながりを持ち続けることができる。そのつながりさえあれば、将来日本に行って日本語をマスターするという可能性も残される。

そこで気をつけたいのは、くれぐれも日本語、ひいては日本に対して子供が悪いイメージを持たないようにすること、である。

日本語学校の宿題をするとなると、お母さんがいきなり鬼のような形相になる。家族の団欒の場で、お母さんがむきになって「私に話す時は日本語だけしか使ってはいけません」と言う。そのような場面になると、お父さんとお母さんの間に何かしら、気まずい空気が流れる。そして時には明らかに険悪なムードになる。

こういう事が重なると、子供には日本語が何となく重苦しいものとして連想される危険性がある。せっかく末永く続けてほしいと思っていても、だんだん日本語に対する拒否反応を示すようになるかも知れない。

小さい間はなんとか親がコントロールすることができても、小学校5年生辺りで「もう日本語の勉強はいや」と言うケースが多く出てくるのは私がかつて行なった調査でも明らかであった。

子供が自分の意志を強く表示できるようになる年齢であるというほかに、現地の学校の勉強が難しくなり、友達との付き合いが密になってくる時期でもある。スポーツをしている子なら、その活動が優先されるようになってくる年頃とも重なる。

なのでせめてその時期以降も、(何語であっても)親とのコミュニケーションを取りたい、と思ってくれるような関係を築きたいものである。

では「北国でパパイアは育つか?」というこの記事のタイトルに立ち戻ることにしよう。

南国のパパイアと全く同じ物を育てようとすれば相当な無理が生じる。ごく少数の人はその無理をやってのけるが、出来上がったパパイアは見た目が同じでも、それをつけている木や周りの葉は疲弊しているかも知れない。

ちょっと形は変わっていても、色が違っても、元気に美味しく育ってくれれば良いと思える心の余裕がほしい。そして実だけでなく、葉っぱも木も健やかであればなお良い。

日本語の保持だけに躍起になるのではなく、親子間・夫婦間のコミュニケーションを大事にして、それぞれの家庭の事情に合った、無理のない言語教育を目指すように。

私は後輩ママたちに機会があるごとにそう伝えているのである。

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