在外日本人のニッチな自由 by 広瀬直子(2013年11月)

トロントは今、晩秋だ。分厚いコート、帽子、手袋に重いスノーブーツを用意する季節になり、心まで重い。日照時間は日々短くなり、12月になると午後4時ぐらいに暗がりが訪れる。こんな時期が4-5ヶ月は続く。カナダに住んで20年弱。最初の2,3年は極寒で暗い冬も珍しく、それなりにおもしろかったが、今となってはゆううつなだけだ。そして、私の頭には「♪冬がくーれば思い出す♪」という自作の替え歌が浮かぶ。思い出すのは日本の温暖な気候。ホームシックになるのだ。

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トロントの冬を乗り切るためには、ぬかりなく冬の支度をする。一番向こうにあるのは車に積もる雪を取り除くもので、片方がフライ返しのような形状になっていて氷をガリガリこすって除く。この緑の帽子はカナダ英語でtuke(トゥーク)と呼ぶ。ピチっと頭にくっつくので暖かい。

この季節のホームシックで、中には本当に日本に帰ってしまう在カナダ日本人もいる。カナダ人でも「シック」になる人は多く、うつ病件数も自殺件数も増える(カナダでは4人に1人がなんらかの精神的疾患をかかえているとされ、その多くがうつ病)。

それに日本は食べ物もおいしいし、言葉のバリアもない。個人的には年をとってきた母親もいて心配だ。

それでも、私は再び日本に定住したいとは今のところ思わない。もちろん、トロントで所帯と会社をもっているからというのも大きいが、もっと根本的な理由は「自由」だと思う。

日本で自由がなかったわけではないが、選択肢は少なかった。私が大学受験をした80年代、「女の子は四大にいったら「とう」が立ち、婚期を逃す」とのたまう人がまだけっこういた。バイト先で知り合った上司や、近所のオジサンらは「女の子は教育はそこそこにして、いい企業(の一般事務職)に務め、サラリーマンと結婚してコトブキ退職するのが一番」みたいなことを言っていた。そう言う人はオバサンもオジサンもいたが、概してオジサンの方が威圧的だった。

当時の若い女性にとって、昭和のオジサンが勧めていたような「コトブキ退職系」のオプションを利用可能にするには、20才前後のたったの4~5年間で進路をそっち方向に決めなければならなかった。しかし私は、四大に行き、在学中には日本人の彼氏にふられて、コトブキ退職系のオプションは学生の時点ですでに遠ざかりつつあった。

私の場合、両親は離婚していて、働くシングルマザーの母親と住んでいたし、姉は自身がすでに海外を飛び回っていた。そんな家族だったので、コトブキ退職系オプションを特に推薦しなかった。行った学校(京都の公立小・中・高と同志社女子大)の先生もリベラルな人が多くて、「女の子だから教育はそこそこに」という空気もなかった。(あとになって、これは珍しかったことに気づいた。大人になって会った同世代女性のほとんどが、私より保守的な教育を受けていた)。

そして大学を卒業して、カナダと日本を往来しつつ語学と文章の仕事をしてからは、コトブキ退職系オプションは発想としてさえ浮かばなくなった。別に避けていたわけではないが、向こうも私のところに一度も来てくれなかった気がする。

29歳のとき、16年前ににカナダに引越した。後悔したことはない。結婚したのは34歳のとき。

日本では今も保守的なオジサンたちが大きな権力を持っていて、女性やマイノリティーが生きやすそうな社会にはなっていないように見える。婚外子の相続差別の撤廃に反対する議員がまだいるということにも、夫婦別姓がいまだに認められないことにも釈然としない。

ただ、日本とともに生き、骨を埋める必要がない私には、それを傍観的に見る視点がある。ずるいかもしれないし、年齢を重ねるとまた気持ちも変わるのかもしれないけれど、今のところこのおかげで私はオジサンからの逃げ道を確保して、心の平和を維持しているのだと思う。

そもそも、カナダという国自体が、日本より自由なことが多い(もちろん、その分責任も伴うが)。たとえば、大学院では、研究に必要だと先生たちを説得さえすることさえできれば、他の学部や大学の授業を受けて単位にすることができたように、なにかにつけ、最後は自分の考えと決断と行動が結果を出す。

そして、私はカナダでは外国人であり、英語もフランス語も母語ではないので「100%カナダ人」な言動をもともと期待されていない、という自由もある。

出身国がアイデンティティーの拠り所にあんまりならない人生を選んだことに、一抹の寂しさは確かにある。でもその引き換えに、ニッチで貴重な自由を手にしていると思う。

ほかの英語圏の国などではなく、なぜカナダなのか、についてはいずれお話したいと思う。

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