インターナショナルスクールは「各種学校」のままでいいのか by 篠原ちえみ

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いわゆる「正規」の学校である日本の小学校

10月下旬、区役所から「就学通知書」が届いた。日本でいえば来年の4月に小学校1年生になる子どもは、現在、9月入学のインターナショナルスクールのグレード1に在籍している。手紙には、学区にある市立小学校が指定されていて、提出期限までにその学校に「入学願」を提出する、と書かれている。当然、提出する必要はないだろう、と思って書類を読み進めると、市立小学校以外の学校を希望している場合でも、提出が義務づけられている、とある(注1)。たとえば、私立小学校に入学希望であるが、現時点ではまだ入学許可が下りていない、というのならわかるが、我が家の場合はもうすでに他の学校に籍があるので「入学願」を出す、というのは奇妙だと思い、念のため区役所に問い合わせたが、やはり「とにかく持っていってください」というのが答えだった。察するに、日本のすべての市町村教育委員会が日本に居住する子どもの状況を把握するためなのだろう。

さて、「入学願」を学校に持参して、二重国籍者という事情を話すと、パスポートのコピーとともに「辞退願」を再度持参するようにと言われた。これにより(学校教育法18条にあたる就学猶予・免除の)書類上の手続きは終わったわけである。学校側の対応は非常に丁寧なものだったし、手続きはこれだけのことだったのだが、どこか心に引っ掛かるものがあった。

日本では二種類の「学校」がある。「正規の学校」、それ以外の学校は「各種学校」と呼ばれる。「正規の学校」は、学校教育法第1条に規定されているため通称「1条校」と呼ばれる。公立学校、私立学校がそれにあたり、文部科学省が告示する学習指導要領に沿った教育課程を組み、それに則って授業を行う義務がある。ご存じの通り、公立の小、中学校は義務教育であり授業料は無償となっている。

一方、それ以外の学校は「各種学校」と呼ばれ、普通教育を施すための学校としてはインターナショナルスールなどの国際学校(International School)、外国人学校(National school=民族学校)があり、いずれも全日制である。ただし、「正規の学校」ではないため、国際学校と外国人学校は、自動車学校や英会話学校と同等の扱いになる。

この区別のために、インターナショナルスクールに通うと、日本国内では思わぬところで別枠扱いにされる。まず、義務教育諸学校で無償配布される教科書がもらえない。就学前検診も受けない。また、基本的に公立学校では、前段階の教育課程が終わっていなければ、次の教育課程を受けられないわけだから、基本的にはインターナショナルスクールから、たとえば公立中学校への転学は道を閉ざされることとなる。(注2)

さらに言えば、日本の大学は高校の卒業認定がなければ受けられないため、また、国公立大学ではセンター入試が課されているため、この時点で日本の大学という選択肢は、高等学校卒業程度認定試験(旧大学入学資格検定)を受けて大学受験資格を獲得するか、帰国子女枠など限られた特別枠を利用する以外なくなる。

この現実に即して問題提起をしたいのは、次の点である。

日本政府はグローバライゼーションに対応するために教育に関して多大な予算を使い、大学への留学生勧誘、国際交流や各種英語教育プログラム(注3)などに積極的に取り組んでいる。その一方で、実際に日本国内で起きているグローバライゼーションへの対応は悲劇的なほど遅れている。現在進行する「国内のグローバライゼーション」と旧態依然の制度の間でひずみが生じ、一部の家庭や個人が暮らしにくいという事実は、社会福祉関係や教育の最前線では日常的問題として対応を迫られているが、一般にはほとんど知られていない。現実に起こっている「国内におけるグローバライゼーション」に目を向け、教育におけるインフラを優先的に整えるべきである。

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これからの日本の将来を背負っていく子どもたちには、多様性に柔軟に対応するしなやかさを

まず、グローバライゼーションを背景として多様化する家族構成に対応するのであれば、二重国籍者の置かれた状況にも配慮し、国際バカロレア・プログラム(IBプログラム)を提供しているインターナショナルスクールを「正規の学校」として認める時期ではないか。

二重国籍者を持つ親にとっては、両親の2つの文化に触れる機会を持たせたいと願うのはごく自然なことである。私たち家族の場合は、日本とカナダという文化を、日本社会という生活環境のなかで触れさせたいと願っている。そして、話し合いの結果としてインターナショナルスクールという選択肢を選んだのだが、そうすると日本の教育からは事実上、排除されることになる(し、心理的にはマージナライズされたように感じる)。

実際、多くの国では「AかBか」という選択肢の時代は終わっている。たとえば、国籍に関する考え方がそうであり、重国籍は自然なこととして受け入れられている。一方、日本の国籍法ではいまだ重国籍は認められておらず、22歳になるまでに「どちらか一方を選ぶ」ことになっている。グローバライゼーションを背景とした多様化する家族構成や家族状況に対応するには、「AとB」という考え方もありえるという場合が多々出現している、という現状に配慮する柔軟さを社会のなかで育成する必要がある。

国として、グローバライゼーションに対応する日本人の育成を考えるならば、英語教育や表面上の外交儀礼で止まってはいけない。これからの日本の将来を背負っていく子どもたちには、多様性に柔軟に対応するしなやかさを鍛えなくてはならない。こうした資質は私たち大人が日々の生活のなかで醸し出している社会文化のなかでこそ育成されるのであり、単に英語が話せたり国際教育の講義を聞けば学べるようなものではない。こうした社会こそ、マイノリティが生きやすい社会、社会的弱者にやさしい社会であり、ひるがえっては誰もが安心して生きられる社会である。

同時に、国内のインターナショナルスクールで教育を受けた子どもたちが日本で大半の大学やその他の高等教育機関から締め出されているのは、日本にとってどれほど利益があるのか。世界各国で認知度の高いインターナショナル・スタンダードであるIB教育は、決して日本政府の教育基準に劣ったものではない。

当然、「義務教育」=「国民教育」という意味深長な思想がある事実は認める。どの国においても、義務教育というのは国が自国の市民を「よき国民」として育成することを期して行われる。しかし、今の時代、「よき国民」は「よき地球市民」と対立する概念なのだろうか。言い換えれば、自国にとってのみ「よき国民」であれば事足りるのか。明らかに違う。グローバライズされた国際社会は相互依存のうえに成り立っており、環境問題、戦争、病気、経済問題など、国際社会が直面している緊急課題は、自国だけの利益という垣根を取り払ったときに解決を見いだせる問題である可能性が高い。いみじくも「国際学校」を標榜するIB教育の真髄は、こうした国際社会で豊かに、平和に共生できる地球市民の育成にある。そう考えると、インターナショナルスクールがいまだに「各種学校」とされている現実は腑に落ちない。

配偶者が非日本人、子どもが二重国籍者という状態で過ごしている私にとって、ちょっとした出来事に「いろいろと考えさせられる」ことが多い。今回の就学通知がまさにそうだった。こうした出来事は、どんな社会でもマジョリティという立場に立っていると見えないことが多くある事実を認識させてくれる。あらゆる人にとって住みやすい国は、究極的にはマイノリティが住みやすい国である。グローバライゼーションを乗り切るために必要な多文化共生の精神をまずは大人が培い、日本国内で生じているグローバライゼーションの現実に目を向け、とりわけ教育に関する分野で緊急に取り組む必要があると切に思う。

注1 「市立小学校以外の小学校に入学を予定している方についてもこの届を必ず提出し、その後、私立小学校以外の小学校への入学が許可されたときに、その学校の入学許可書を指定小学校に提示し、入学変更の手続きを行ってください」となっている。

注2 ただし、聞くところによると、義務教育である公立中学校であれば、インターナショナルスクールから転学はあるようである。また、学区の公立学校に籍を置きながら、インターナショナルスクールに通うことも校長先生の一存で可能であるという話も巷には流布している。こうした子どもたちは、インターナショナルスクールと公立学校の夏季休暇のギャップ期間だけ公立学校に通い、普段は「不登校」という形であるが、一応、卒業認定が受けられる。このような混乱が起こっているのも、規則上は禁止されていても事実上はグローバライゼーションの現象として起こっていることに現場で対応が迫られていることを裏付けている。

注3 たとえば、2009年に文部科学省は国際化拠点整備事業として30大学をグローバル30に採択し、海外からの留学生を積極的に受け入れたり、英語で授業を行うなど、グローバライゼーションに対応しようとしている。

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