趣味を通じて居場所つくり:Baseball Mom 繁盛記(1) by 鈴木典子
2007年、夫のトロントへの赴任が決まった時、私がまず最初にしたのは、子供たちの野球チームを探すことだった。その日から、私のベースボール・マム業が始まったのだった。
当時、息子3人は、中学卒業、小学校卒業、小学校4年修了という時期だった。地元は、甲子園で活躍した松坂大輔の出身地、江戸川区。元高校球児でPTAソフトボールに没頭する父親の影響もあり、子供たちは幼稚園から軟式少年野球チームに入り、野球が我が家の生活の中心だった。赴任地トロントは、メジャーMLBで唯一の米国以外のチーム、ブルージェイズの本拠地だ。きっと、子供たちが野球を続けられるに違いない。野球があれば、言葉が通じなくても、きっと何とかやっていってくれるのでは…。
友人の紹介で、息子さんが野球をしている方に話を聞くことができた。トロントでは、子供の野球は年齢別に分かれていること、地域の野球チームは、誰でも入れるハウスリーグと、トライアウトといわれる選抜を経て地域を代表するレップチームとがあることがわかる。着任時に住む場所が決まるとすぐ、インターネットで地域のレップチームを探し、代表者にメールで子供たちを売り込んだ。幸い、トロントでのコミュニケーションはほとんどがメールだった。錆びついた英語も時差も、大して障害にならず、該当する年齢のチームが無い長男を除く下二人には、トライアウトを設定してもらうことができた。TTCを乗り継いでトライアウトのある野球場に行ったのは、まだ学校も決まらない、到着直後の週末だった。
次に何をするのか、コーチが何を言っているのか。私は子供の後ろについて回って、必死に通訳した。日本の少年野球は軟式だったので、慣れない硬球に勝手は違ったようだが、幸い、日本での経験が認められ、二人とも無事にレップチームに合格。これで、野球を続けさせることができる!
子供たちは、自分のやってきた野球を認められ、ほめられたことで、相当に安心したようだった。当時子供たちは、長男を除き英語はほとんどわからないし、近所に日本人は住んでいない。そんな中で、野球を通して、子供たちは自信を持ち、自分の居場所を見つけることができた。
野球のおかげで、我が家のネットワークはすぐに広がった。三男は、地元の公立学校に入ってみたら、同じレップチームのチームメイトが同じクラスにいた。長男は、次男の野球チームのコーチが2学年上のチームを紹介してくれた。次男のチームは、はるばるナイアガラまで遠征に行く機会があったが、まだ車が無かったので、通訳兼マネージャーの私も一緒にチームメイトの車に乗せてもらった。練習や試合の間と送迎の車中は、私にとって、トロント生活の相談と英語の実戦練習の場であった。
5月から9月初めまでの4か月、毎日、いや、日によっては一日に2試合ということもある。野球漬けの夏はあっという間に過ぎていった。そして9月には、子供だけではなく、私にも夫にも地元に友達ができ、下二人は、チームメイトの紹介でアイスホッケーチームに入るおまけつきだった。
トロントに来るときは、二男、三男の進学のために日本に早く帰国することも考えていた。小学校の友達と分かれ、到着した夜に日本に帰りたいと泣いた次男は、今は野球の奨学金を得て米国の大学に進学するまでとなった。夫に逆単身赴任を強いてまで、残りたいと思わせるようになったのは、野球のおかげに他ならない。
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海外に赴任することになった親本人は仕方がないとしても、家族がうまく生活になじめず先に帰国する、というケースも多く耳にしている。補習校に子供が通っていたころは、補習校だけが楽しみという生徒さんもいると聞いた。そんな中で、子供がいる家族の場合、まずは得意なもの、興味のあるものを続けられるようにする、というのは、試してもいい方法ではないだろうか。もちろん我が家の場合、赴任時期、住んだ地域、得意だったもの、性格など、いろいろな幸運が重なったおかげだとは思う。それでも、日本で経験し、少しでも自信を持てることがあれば、それを通して自分の居場所を見つけられるかもしれない。スポーツ、芸術、科学、料理、数学、地理や歴史、マンガ・アニメ、ゲーム、ブロック、なんでもいい。まずは没頭することで時間がつぶせる。同じ趣味や分野の仲間ができる。知識と経験があれば、日本とカナダで違うところがあっても、違いを面白がったり適応したりすることもできる。親も、子供の得意なことや興味のあることであれば少しは知識もあるし、応援する姿勢や悩みは、おそらく万国共通。
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トロント滞在7年の間に野球を通して考えたこと、楽しかったことなどをつづってみたい。丸2年も更新していないがブログもあるので、ご参考までに。http://blogs.yahoo.co.jp/tenkons2000