「アパシー」と「希望」 by 篠原ちえみ

ここ数年、歴史認識をめぐる日本、中国、韓国の考え方の違いが浮き彫りとなり、領土問題やナショナリズムもからんで政治的に大変な様相を呈している。2年前に帰国して以来、私の目には現政府をはじめ、メディアや日本人の多くは、歴史認識に対して「共通認識を持つのは不可能」と感じているようだ。chiemi_tulips

ひるがえって、2月9日、医療法人から不正な資金提供を受けた猪瀬前知事の辞任を受け、東京都知事選が行われた。首相を退いた後、突如として脱原発を言い出した小泉純一郎をバックに同じく元首相の細川護熙が出てきて、DV疑惑が噂される舛添要一との争いになった。結果的に、原発政策はまったく争点にならず、投票率は46.14%と過去3番目に低い水準となった。

投票率と言えば、4月6日には私が暮らす京都府で府知事選挙があったが、投票率は過去最低の34.45%で、およそ3人に2人が棄権しているという有様。投票終了時間の午後8時数分前にギリギリで投票所に駆け込んだ私は、選挙管理委員の方に「投票、ごくろうさまです」と頭を下げられたが、選挙権のなかったカナダでの経験があるので、むしろこちらが頭を下げたい気分であった。

こういうことを最近つらつらと考えていると、Apathy/アパシーという言葉が脳裏に浮かんできた。「無気力、無関心」という意味として知られているが、単なる「体がしんどい、やる気のなさ」というより、アパシーの根底には「何をどうしようと何も変わらない」という無意識の認識が根強くある。首相がいくら「アベノミクスはうまくいき、日本経済は建て直している」と言っても、彼の目に見えない日本社会の隅々にこのアパシーが広く、深く浸透しているように、私には思える。

アパシーが蔓延する社会というのは、社会に正義が通らない、通りにくい社会でもある。また、非常に根強い集団的・全体的体質があり、個人の努力が実を成しにくい社会でもある。アパシーは、同時に希望の欠如でもある。人が投票に行くのは、一縷の希望をもって行くのではないか。私たちが毎日朝起きて気持ち良く仕事に行けるのも、仕事の先に希望をもっているからではないか。こうした希望が曇り始めると、社会にはいろいろな弊害が現れてくる。

歴史認識の問題に関して言うと、日本、中国、韓国のあいだで歴史認識がある程度違うのは受け入れよう、というところから出発すべきだと思う。なぜなら「絶対的な歴史認識」というものはないのだから(「いや、ある」という人は意識していようがしていまいが、ご自身の政治的スタンスがある、ということだ)。ここに留まっている限り問題は永久に解決しない。だからこそそれぞれの国の政治家が、今後、隣国との間にどんな関係を作っていきたいか、それをまず思い描くことからはじまり、未来を志向する(政治的な意思)べきなのだ。歴史認識の問題は、歴史家には任せられない問題であり、政治的にしか解決されえない問題である。これは、言葉を換えれば「政治的に解決しうる問題」であり、これこそが歴史認識問題の「希望」である。

ひとつ今の日本社会にひろく欠けているのは、未来を志向する、将来に理想の像を描く、ということかもしれない。それは、別のことばで言えば「問題は解決しうる」「ものごとはよい方向に進んでいる」と信じることでもある。

こう考えてきて初めて、私も実は日本に来て以来、「アパシー」と闘ってきているのだと気付いた。12年間暮らしたカナダでは、選挙権を持たない私ですら「アパシー」は感じていなかった。社会は当然よくなっていくものだと、そのためにみんなが動いているのだと、私の知る限り、多くの人たちが、多くの機関が信じていた。そのカナダから日本に戻り、未来が志向できず、希望が見えにくい社会で暮らす私もまたアパシーという病に浸かりかけているのだとここにきて気付いた。

とはいえ…。政治的意思の見えない、解決の見えない日本の政治的堂々巡りに嫌気がさしている私も、しかし、今回の選挙でも捨て票とは知りながら一票を投じた。そのとき、私はやはり未来を思い描き、希望を抱いていたのだと思う。好戦的な比喩になって恐縮だが、負け戦とはわかっていても、戦わねばならない戦いがある、といったところか…。

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