童心に返るとき by 嘉納もも・ポドルスキー

「童心に返る」と聞くとたいていの場合は、大人が我を忘れて解放感を覚える、微笑ましい出来事を連想する。

休日に子供と訪れた公園でブランコに乗って、思いっきり漕いで楽しかった、小さい頃に大好きだった縁日で久しぶりに金魚すくいに興じてすっかり夢中になってしまった、などなど。

しかし実は、悲しかったり辛かったりした思い出の方が大人を子供時代へと引き戻すのではないか、と私は考える。童心に返ることによって解放感ではなく、ある種の呪縛に囚われることもあるのではないか、と。

私の母は昔からたいそう料理が上手かった。年を取ったら料理をするのが億劫になった、と言う人が多い中で、80歳近くなった今でも母の食べ物への関心は非常に高い。一人暮らしであるにも関わらず、実家の冷蔵庫はいつもぎっしりと作り置きの惣菜が詰まっており、食納庫にはありとあらゆる食材が満載である。

DSCN2793 (1024x797)食べる物がね、いつも目の前にたくさんないと不安になるの。

母はそんな自分の「食」へのこだわりを、戦争を体験したせいだと説明する。

昭和11年生まれの母は戦時中から戦後の食糧難の時期に食べ盛りを迎えた。毎日、芋や豆ばかりを食べさせられて一時はそれらを見るのも嫌になったと言う。栄養失調で体調を崩すことも多く、戦前には何とも思わずに食べていたバナナやチョコレートが懐かしくて悲しくなったそうだ。

中でも母が特に鮮明に憶えている「食」にまつわるエピソードがあり、我が家ではそれを「戦時中の饅頭事件」と呼んでいる。

戦争末期に疎開していた京都の親戚の家で、当時9才かそこらであった母は肩身の狭い思いをしながら暮らしていた。そんなある日、母は伯母(私の祖父の長姉にあたる)が奥の部屋でこっそりと自分の子供にだけ、やっと手に入った貴重な饅頭を分けて食べさせていたところを目撃したのだ。それが羨ましくて羨ましくて、涙が出るほど悔しかったらしい。

P1030536 (890x1024)私が初めてこの話を聞いたのは確か中学生の頃だったと思う。母の生々しい戦争の思い出話はかなり衝撃的で、印象に残った。

それから何度、繰り返して聞かされたか知れないが、その度に母は同じように語りを締めくくるのだった。

伯母ちゃん(のしたこと)、ひどいと思わない?意地悪よね。で、すぐにお父さん(私の祖父)に言いつけて、そしたらね、滅多に怒らない人が本気で伯母ちゃんを責めて、伯母ちゃんも悪かったと思って泣いたんだけどね。

そして当然、私は自分の母親の受けた不当な扱いに憤慨し、「ひどいねえ」と頷くのがお決まりのパターンとなっていた。

ところがつい数年前、この「戦時中の饅頭事件」を久しぶりに聞いた私は疑問を感じた。

伯母ちゃんのしたことって、そんなにひどい?

自分自身が二児の母親となり、年齢もその頃の大叔母を上回っていた私は母に言ってみた。

私がその時代にたった一つの饅頭をもらった母親であったなら、きっと同じように親戚の子には与えずに自分の子供だけに食べさせたと思う。ママだってそうでしょ?私とお兄ちゃんだけに食べさせたでしょ?

「意地悪な伯母さん」が泣いた理由についても考えてみた。

伯母さんはママたちに「隠れて」自分の子供に食べさせてたんだよね?だからそれなりに気を使ってたのに、弟に頭ごなしに怒られて辛かったと思うよ。食べ物のない時代に、好意で疎開させてあげているのに、って。だからママたちに悪い事をしたと思って泣いたんじゃないと思う。

母はその時、初めて目が覚めたように私を見て、「確かに」と言った。

さらにしばらく考えて、「そうよね、そりゃあそうよね」と、苦笑した。

思うに、母はこの「饅頭事件」を語るときには完全にタイムスリップして幼い頃の自分に戻っていたのだ。だから感情はもちろん、思考回路も9才の少女のままであり、子どもや孫のいる「大人」の立場から当時の状況を振り返ることができずにいたのだろう。

ブランコに乗ったり金魚すくいをしたりして「大人である」ことから解放される場合とは逆に、母は「童心に返る」ことでずっと子供の頃の恨みに囚われていた。それに気づいた時、母はやっと伯母のしたことを理解し、許す境地に立てたのだと思う。

なお、この時から「戦時中の饅頭事件」は食べ物の恨みにまつわるちょっと重苦しいエピソードとしてではなく、思い込みをたしなめるユーモラスな教訓として語られるようになったことを記しておく。

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