今年私がやりたいこと
一年の計は元旦にあり、といって、一年の初めに、今年一年、自分が何をやろうと思うか、きちんと計画を立てるのがいい、と言われる。
私が今年一年でやるべきこと、やりたいことは、何だろうか。
人間は自分一人で生きているわけではなく、私にとって、子供たち、夫、会社、そのほか、様々な私を取り巻く人や社会が、私の人生に影響を与える。そうした社会の中での生活が、私の人生である。なので、とりあえず、自分を取り巻く人や社会の中で、自分の目の前にあることをこなすこと、自分がやらなければ周囲が困ること、または、自分がやることを社会が期待していることが、まずは、「私がやらなければならないこと」だろう。
では、「自分がやりたいこと」は何だろう。ここが私にとって、難しい。実は、自分はいったい何をやりたいのかが、まだわかっていないのである。
この年になるまでには、いろいろな場面で選択をしてきた。進学、就職、結婚、出産、転勤。しかし、恥ずかしながら、真剣に将来の人生を見通して、いくつかの選択肢の中から一つを選んできたかというと、「成り行き」だったり「選択の先延ばし」だったような気がする。
言うなれば、器用貧乏、八方美人で、何でもそれなりに無難にこなしてきたし、どうしてもやりたくないこともなければ、絶対にやりたいことも特になく、やったらやったで面白くやりがいもある。人よりずば抜けてすぐれたところがあるわけではなく、逆に箸にも棒にもかからないくらい全然できないことも、それほどあるわけではない。家族の事情で自分の人生が影響を受けることはいろいろあったが、だからと言って、その人のせいにする気はない。しかし、自分から選んでその道に進んだ、と言えるほどの成果が得られたわけでもない。
今年、三人の息子の一番下が18歳を迎え、カナダでの成人となる。次男は昨年二十歳になり、日本にいれば先週成人式に行く年だ。長男はオンタリオの大学で夏にはいよいよ卒業し、社会人となるか、上の学校に進学するか、選択する時期になった。
悩みや迷いはあっても、子供たちはそれぞれ、自分が何をやりたいのかを語れるようになっている。やりたいことをやり遂げるには、いろいろ障害もあるが、本当にやりたいことがあれば、それを乗り越える知恵と努力がきっとついてくることだろう。
そろそろ還暦が手の届く年になって、まだ、自分のやりたいことがわからないなどと言っている私としては、わが子ながらうらやましい。
一年のはじめと言っても、もうあっという間に2週間が過ぎている。大人の責任として、まずはやらなければならないことをやらなければ、というのを口実にして、自転車操業のように立ち止まることなく走り続けて、また一年が過ぎていくのだろうか。新年の原稿としては、情けない限りだが、次の格言を最後に引用して、改めてがんばることにしよう。
It is never too late to become what you might have been. (George Eliot)
(日本文)なりたかった自分になるのに遅すぎるということはない。
ジョージ・エリオット(英国の女流小説家)