言語学習の不思議
一昨年からトロント新移住者協会の「日本語教育プロジェクト」に携わるようになった。私は日本語教師の資格を持っていないし、言語学の専門家でもないが、カナダで日本語を子供にいかに継承するのか、という問題については色々と考えるところがある。
言語は年齢が低い頃から習得するのに越したことはない、というのが何となく定説になっているが、私は主に二つの状況のもとでは年齢に関係なく第二、第三の言語を獲得することが可能だと思っている。
まず考えつく状況は「生活に必要である」:これはサバイバルという意味で生活に不可欠である場合、人間は何とか周囲とのコミュニケーションを取ろうとして言葉をおぼえるからである。
次には「本人の意志が強い」:サバイバルには関係なくとも何らかの理由でその言葉を話せるようになりたい、と強く感じている場合、習得に熱心に取り組むからである。
習得のレベルはもちろんそれぞれの能力や学習環境・リソースにもよるだろうが、移民がホスト社会に定住するにあたって現地の言葉を身につけたり、大学で外国語を真剣に勉強して流暢に操るようになる学生がいることを鑑みると、私の意見に賛成していただけるかと思う。
また逆に言えば、必要性がなく、本人もおぼえる気がなければ年齢が低いからと言って第二言語を習得する(させる)のは一般的に思われているほど容易ではない。それゆえに、あまり親が躍起になっても仕方がないからゆったり構えて取り組んだ方が良い、というのが私のカナダに住む日本人の親御さんへのアドバイスである。
さて、そうは言ったものの、一つだけ年齢が関わっている言語習得の側面があるかも知れないとつい最近、改めて思わされたことがある。
それは「発音」である。
ある言語において、いわゆる「ネイティブ・スピーカー」の発音は確かに小さい頃に体得しなければ完 全にはモノにならないようだ。
「ネイティブ並みの英語発音」をことさら珍重する日本では、「そんなことはとっくの昔に承知だ、だから小さい時から英会話教室に通わせて、英語圏出身の先生につけて…」とおっしゃる方々がいるだろう。
だが私の言う「体得」はそんな方法では達成できない。幼少期からその言葉が日常的に話されている環境に少なくとも数年は滞在し、学校にも通い、生活の一部として話す必要がある。そうやって獲得された発音は頭の奥深くに浸透して忘れられることがないだけではなく、大人になってからではなかなか真似ができない類いのものであるように思う。
私は職場でたくさんの外国人の学生や学者たちの話す英語を聞く機会がある。面白いのは彼・彼女たちが普段、話している時はそこそこネイティブに近い、綺麗な発音であるのに、ちょっと緊張したり、疲れてくると母国語のアクセントが表に出て来ることである。何を隠そう、私もその一人だ。
私が英語を学び始めたのは11才の時だった。父の駐在のためフランスに住んで七年目、学校で英語を教科として勉強するようになって二年目に入ったところであった。
母がくれた「ビートルズ」のレコードがきっかけとなり、どうしても彼らの曲の歌詞が理解したい、聞き取れるようになりたい、と思うようになったのである。母は私のためにイギリス人の若い女の先生を見つけて来てくれて、以後、その先生との特訓によって私の英語力はどんどん上達していった。
だが私が実際に英語圏に住むようになったのは大学院に入ってからである。今年でカナダ生活も28年目になり、自分では英語を不自由なく操れていると思うのだが、息子たちに言わせると発音は「訛っている」らしい。特に焦ったり、ケンカになると急にその訛りが顕著になる。
指摘されると「そりゃそうよね、外国語だもん、私にとっては」と、負け惜しみを言うしかない。
では母国語であるはずの日本語の発音はどうなのかと言うと、それも少し怪しいところがあるのに気が付く。ビデオに撮られた自分の話し声を聞くと、どことはなしに訛っているのだ。特に「し」や「ふ」、そして「つ」などの入った語句に違和感があるように思う。これは前々から私の母が指摘していたことだったが、自分では認めたくなかっただけなのかも知れない。
そこではたと思いつき、私はフランス語の本を引っ張り出して来て携帯電話に向かって朗読してみた。再生すると聞こえてきたのは(自分で言うのもおかしいが)完ぺきに発音されたフランス語だった。
ということでまとめてみると:
現在、生活の中では使用量のほぼ90%を占める英語だが、発音は外国人のものに留まっている。
両親の言語であり、生まれて初めて使ったという意味では私にとって日本語が母語である。表現力の上でもっとも自由自在に使える言語だが、かすかな訛りがある。
そして今となってはほとんど使うことがなく、「第三言語」と見なしているフランス語だが、発音の上では最も正確なのである。
幼稚園から高校1年生まで、日常生活の中で私がもっとも長時間、多様な場面で使い、耳にして来た言語だからだという結論に達さざるを得ない。
以上、私の個人的な経験に基づいた(したがって非科学的な)持論を展開したが、またひとつ、言語学習の不思議に遭遇して興味をそそられた次第である。