The 4th Toronto Korean Film Festival 「映画祭のススメ」− 見る側から見せる側へ
文・田中裕介
今や昔、明治期の学生は「学問のススメ」を読んで「天は人の上に人を造らず」という平等の思想を初めて学んだという。ならば、21世紀の学生には「映画祭のススメ」を訴えたいと思う。人種平等を北米多民族社会で実践するよい機会だからだ。映画好きを自称する人ならば、地元の映画祭に積極的にかかわってみるとよい。見る側から見せる側へ視点を移してみよう。スクリーンの裏側が見えてくるかもしれない。
- 映画という神様を祀る若者たち
トロント・コリアン映画祭(TKFF)の理事として、 審査から企画、運営までかかわって3年。「祭」は「政」であり、「松」を「祀る」ひとつの信仰かもしれないなと思う。もちろん、ここでの御神体は「映画」である。聖なる映画を招き入れて人を集めて皆でたたえる。エロチックな神様もいれば、ペダンチックもいる。映画は、ある集団が想像力を総動員してこしらえる一つの 神話なのだ。どういう神を選んで皆で服従(まつらう)か。討議を重ねていかに独自の世界観を創りだすかで評価が決まる。
小規模とはいえ長編9本、5分から30分の短編映画9本を選ぶ選考委員7人は3週間ほどで各々100本以上を見て点数を付けていく。体力勝負だ。「とてもじゃないが僕は全部は見きれない」とこぼした。すると、知らない間にシニア・アドバイザーという肩書きがついていた。体のいい「窓際族」扱いだが、一次選考の40本ほどを見て、コメントを付けてくれればそれでよい、と彼らは年寄りに優しい。
先ずは今年のテーマを決めようとしたがよい案が出ない。そこで、とにかく良い作品を選んでいって、逆にそこからテーマを探り出そうということになった。そして、テーマは「끈」(Gguen)に決まった。これは「クン」と読み、「紐、絆、糸、縄」などを意味する。全ては見えない何かで繋がっているという含意だ。英語ではstring、bond、attachmentなどの訳語を当てた。
これに沿って宣伝用トレーラーが作られた。シューズの紐を結ぶバレリーナ、糸を編み上げる見事な手芸家の手つき、コモンゴという琴の演奏者のカットが織り込まれた、これ自体がコリアン文化を紹介するに足る立派な短編となった。
祭りも4回目ともなると、人員の交替や新しい才能の参加もあって、学生主体とはいえ、技術的にはプロ級になったと自負している。今年は数人がトロント大卒業と同時に韓国へ帰ることになり、スタッフはちょっぴり別れの寂しさも味わった。
「政りごと」も顕在化してきた。集中的に徹夜で作業を続けていくと、誤解や我の張り合いで席を蹴って辞めるスタッフも出て来る。僕の場合は、日本で制作された在日コリアン映画を紹介する担当になっているが、本人がコリアンではなく日本人であることで、スタッフの何人かは複雑な違和感を抱いているようだ。すれ違いざま背中で舌打ちされたことがある。抑えていた民族意識が不意に出てしまったようだ。これは日本人として、過去25年間、他のエスニックの連中と政治活動を続けてくる中で何度か経験してきたことだ。その都度、「ちょっと気になるのだけど」と幹部に報告している。
余談になるが、日系ボイス編集者時代も、少数派であるが故のハラスメントを経験してきたことを思い起こす。1990年代初期、アルバータ州の先住民ルビコン族の聖地を乱開発する日系企業に反対するデビッド・スズキを支援して、デモに出たり記事を書いたりし始めた頃から、僕は日系人からもネイティブの支援者からも目の仇にされてきたように思う。一度、集会で「なんで日本企業のスパイがここにいるのか」と言われて、笑い転げたことがある。一方、バブル期に羨望とバッシングの的にされた日系企業のその後の凋落ぶりは目を覆うばかりで、この製紙会社も消滅してしまった。
あるいは、例の日本の戦争責任問題では、日系社会のボスが事務所に怒鳴り込んで来て恫喝するということが数回あった。だから、僕は「舌打ち」程度では驚かない。誰からも尊敬されているある三世が、血相変えて「Don’t get over your head!(出過ぎたマネはするな!)」と怒鳴り散らして出て行った。咄嗟のことで意味が分からず、説明してくれとその夜メールした。すると「お前たちが邪魔しなければ、この問題は日本と中国の政府が話しあってもっと早く解決していたはずだ」という返事。やれやれ、飼い馴らされた番犬よろしく、吠えつく役目をさせられているという自覚がまるでない。おそらく、ここにあるのは日系人の主流意識と移住者に対する複雑な思いだ 。一方で、ろくに英語も話せない移民のくせにという見下した姿勢と、他方で自分自身が日本語も歴史や文化もろくに知らないというひけ目と嫉妬。表と裏を使い分ける日系社会の村八分的なやり方は、もっと陰湿なのである。
さて、全日程が終わり、2週間後の全体会議で結果報告、来年の更なる発展を期して終了。赤字幅は昨年同様だが、これは予算が拡大したためだ。嬉しいのは、入場者数が2倍以上に増えたこと。4年目にしてやっと存在が認知されてきたようだ。
広報、販促など6部門総勢30数名は、実社会との接点で教室では決して学べない知識と経験を得た。多くの才能が一つの目的に向かって試行錯誤し、全体を創りあげる。これ自体がアート作品なのである。映像作家を目指すスタッフも何人かいる。「TKFF」の名で映画制作して世に出そう、とけしかけて帰ってきた。
- 「こと(真実)」を寿ぐ
今回のTKFFを終えて思うのは、上映作品全体がバランスよく有機的に繋がったということだ。初日の「ソーシャル・フォービア」は、SNSで繋がっているバーチャル・コミュニティが、ある事件以後一人をターゲットとしてイジメが始まり、死に追いやった−−あれは自殺か、他殺だったのか。 無名性を前提として繋がっていた彼らは、一旦炎上した後、幻のように消えていった。仲間などではなかった。浮遊する分子がたまさか架空のSNS空間に集合しただけのことだった。
これと対照的な作品が最終日の 「Revivre」だ。韓国語の原題「ファジャン(화장)」は、「化粧」と「火葬」を意味する二つの同音異義語に架けられている。脳腫瘍で死にゆく妻と看病する夫、彼の部下の女性との三角関係を描いている。「惜しみなく愛は奪う」という言葉が示唆する、男女の<愛>と<欲>の相克にベテランのイ・クワンテク監督が挑む。他の女の存在を察知した妻は、自分が死んだ後にまで夫に対する愛を証明しようとする。 これから情事に及ぼうとする夫と女のもとに、女の好きな銘柄のワイン<バランスよく熟成したフルーティなボディ>が1ダース届けられるのだ。
僕は仕事上この映画を2度見た。1度目は、この化粧品会社の副社長と美人社員が情事に至るまでの過程を、期待と羨望のまなざしで見ていた。ところが、2度目は、視点が死を間近にした妻と夫とのどろどろの関係に移っていった。排泄機能が麻痺した妻のお襁褓(むつ)を取り替え、泣きわめく妻を抱いてトイレに運び、シャワーで局部を洗うという10分近いワンテークのシーンは、息をのむ出色の演技だ。同時に、なぜ監督はここまでやらせるのかと、役者が気の毒にさえなった。
そして、はたと気がついた。この映画のタイトルの「化粧」とは美を演出する自己主張というより、むしろ脆く醜く臭い身体を覆い隠す自己防衛手段を意味するのではないか。思えば、セックスそのものが、互いの排泄器官を用いて、官能を共有し合う行為であり、排泄と愉悦の源は実は一つなのである。だから、夫婦の真実(まこと)の愛とは、相手の排泄と愉悦の行為の両方に「私は死ぬまで付き合います」と約束することかもしれない。イ・クワンテク監督は妻の死を看取る夫を通じて、「あなたにそれができますか」と問いかけてくる。なんとも官能的な映画である。
- 「疑ってみる」こと
映画は現実の表層を剥いでその裏側を見せてくれる。ただ問題は、制作者が何年もかけて探り当てた真実や物語を、観る側は90分の枠内で通覧し「なるほどね」と気軽に納得してしまうことだ。現実社会ではそうはいかない。自分で裏表をひっくり返し、これまでの既成概念を壊してゆく胆力、執念がなければ真実は見えてこない。小賢しくも、僕は学生たちに「疑ってみろよ」と繰り返している。
これは僕が言い始めた言葉ではない。福沢諭吉の「学問のススメ」にも、「疑ってみろ」と書いてある。だが、明治期に300万部を売り尽くしたこの本自体を先ず疑うべきだと思う。「平等」の理想を掲げて、学問、自由と独立の必要性を説いた。だが、その直後に書いた「脱亜論」では、近隣諸国の後進性を指摘し、啓蒙的進出の動きに転じていった。 こうして彼の信奉者たちは選民意識を煽られ、隣国への侵略を正当化していったのだ。
今回上映されたシン・サンゴク監督「常緑樹」は、侵略された側の若者が圧政に喘ぎながらも、懸命に民族自立へ向かおうとする姿が描かれている 。松が常に緑であるように 、よい映画は末代まで祀られる。
(この記事は 「ふれーざー」2015年7月号に掲載された拙文に修正、加筆したものです。田中)