日本を英語で語ること、そしてナショナリズム

文・広瀬直子

IMG_0022自著の宣伝になって恐縮だが、最近『みんなの接客英語』という本をALC社から出版した。外食、小売り、ホテルなど、接客業に携わるスタッフの英語サービスの向上を目的としている。

また、『日本のことを1分間英語で話してみる』『1分間英語で京都を案内できる本』(KADOKAWA中経出版)などもこれまでに出版しているのだが、ありがたいことに、こういった本の売り上げが順調だ(もちろん、印税生活は夢のまた夢のまた夢で、本職の語学業を営んでいかないと食べていけないのだが)。

「日本を英語で語る」エリアはかつてマージナルだった。日本人が英語を学ぶとき、英語圏の文化を知ることの方が大切と考えるのが主流だったからだ。

それが最近、「日本を英語で語る」路線がメジャーになってきたと感じている。その背景は一時代的なファッション性だけではなく、そこに必要性があるからだろう。外国人による日本観光がいつにも増して人気を博し、海外からのお客様は増える一方。5年後には東京オリンピックが控えている。

そしてもうひとつ、昨今の日本人の右傾化とも無関係ではないと感じている。日本の文化が好きな人なら、それが世界に向けてポジティブに発信されることは嬉しいものだが、ナショナリスティックな人も、意外と対外宣伝が大好きだ。

日本の短大で英語を教えている私の友人は、学生に「素晴らしい日本の文化を伝えるために、英語を学びたい」という人が増えたと感じていると話していた。そのような思想の教育を受けてきたのだろう。

しかしここにはひとつのパラドックスが生じている。「英語で日本を話す」ことには、必ず国際交流が伴い、それは本質的にリベラルな活動で、偏狭で感情的で極端なナショナリズムとは相容れないからだ。

当たり前のことだが、国際交流では相手の文化への敬意が必要だ。日本人が日本のことを外国人に一方的に自慢するのは、相手を引かせる、幼稚なコミュニケーションだ。外国語で自文化を話すには、ある意味冷徹で国際的な客観性が必要とされる。

外国人には苦手であることが多い、納豆やイカの塩辛がどれだけ美味しいかについて英語で熱弁をふるうのはいい。しかし例えば靖国神社の展示内容や、第二次世界大戦時の日本の軍隊による行いの非人道性について、保守派の日本人の視点から——最近世間を騒がせている右派の作家やジャーナリストなどが私の念頭にある——公的な場で教養のある大人を相手に英語で話すと、ひんしゅくを買うことは想像にかたくない。反応を想像するだけで、私などは冷や汗が出る。

そのような態度は、英語圏の学校で歴史教育を受けた一般的な大人などにとっては、何らかの理由で自信を無くした人が、自分の文化に極端に執着し、感情的になって勝手に歴史を改ざんしていると映るはずだ。「美しい日本」などとはまず思われない。

もちろん、自分の生まれ育った文化に健全な愛情を持つことはポジティブなことだろう。しかし、日本を英語で語ることの真意と、極端なナショナリズムは、矛盾している。英語で日本を語る日本人は、自国についてバランスの取れた、鳥瞰的(ちょうかんてき)な教養を持っていることが求められると思う。

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