カナダの土を踏んだ第一号は誰? ~日系史に新たな側面?~
文 ・ サンダース宮松敬子
トロントからBC州の州都ヴィクトリア市に国内移住して、早や一年余りが過ぎた。40余年過ごした古巣を立つにはそれなりの決心が必要だったものの、新たな場所での新たな出発は新鮮であることに間違はいない。
送別のとき耳ダコが出来るほど言われた「トロントほどエキサイティングな町ではない」との危惧も、角度さえ変えて見れば「人の住む所必ず興味尽きないニュースあり」を実感する。
その一つは日系カナダ人の歴史である。
トロントにいた時から、仕事絡みや個人的な興味も伴って、関連の勉強会、講演会、展覧会などには欠かさず出席していた。しかし正直言って、その史実を身近に感じるという体験はなく、親しくしていた数少ない二世の方たちから僅かに昔話を聞く程度のことであった。
だが西海岸に来てからは、ひとっ飛びに戦前の日系人たちの過ぎ越し方に思いを馳せる機会が多くなった。
まず驚いたのは、移り住んだコンドミニアムから3ブロックほどの所に、Ross Bayと呼ばれるヴィクトリアで一番古い墓地があり、そこに150余人の日系人のお墓が存在することであった。
その墓地の一角には、御影石の碑が建っており、正面には“日系カナダ人合同慰霊碑、懸橋」と日本語で、また裏側には「In Honour and Memory of Pioneers from Japan」と英語で書かれている。

架け橋碑
戦前から今に至る日系人が、勇気を持って苦難を乗り越えカナダ社会で生き抜いて来たことを称えその証を残すために、99年8月に関係者の尽力によってモニュメントの建立を果たしたのである。
これは私にとって非常に身近に感じたヴィクトリアでの「目で見る日系史初体験」であった。
日が経つにつれ更なる歴史を知るに従い、ヴァンクヴァー・アイランド(以後VI)の多くの場所に、戦前の移住者がコミュニティーを作り、家庭を築き、そして亡くなっていった痕跡を見ることが出来ることにも驚いた。
今夏はその中の6ヶ所ほどの墓地を、本土Stevestonの仏教会からいらした開教使と共にお盆の前に墓参りをした。
「当地にはこれ程凝縮した日系人の歴史があるのか!」と関心が尽きなかったが、その前後にVIに集約しての日系史をまとめたある親日家のカナダ人夫妻の知己を得た。
今まで日系史と言えば日本人か日系2、3世が書いたものがほとんどだったが、白人夫妻が自分たちの足で歩いて調査し、それをまとめた「Gateway to Promise 」(2013年)と「Sakura in stone」(2015年)と言う本を上梓したことを知ったのだ。
前記のは400頁にもなる分厚いもので、後記のはその中のさわりの部分を100頁ほどに要約したものである。
読み進むほどに興味深いのだが、そのさわりとは日系社会で信じられている「永野万蔵パイオニア説」に果敢に挑み、自分たちの考える「第一号」を選出しているのだ。
周知の人も多いが、永野万蔵に関しては1977年に日本人移民100年祭を祝った際に「パイオニア」と決められ、以来、史実として定着し、連邦政府地名委員会はロッキー山脈のオウェキノ湖(Owikeno Lake)近くの山をマンゾウ・ナガノ山(Mount Manzo Nagano)と定めた。
だが当初からこの説には疑問視する声があった。理由は、実際に1877年に彼がカナダに到着したという「確固たる資料」はなく証拠が不十分な上、人生の後半には日本に戻り出身地の長崎県口之津村で没しているからだ。
ヒストリアンの夫妻はこの点に焦点をあて、記録がしっかりと残り、当地で事業を起こしヴァンクヴァーで没し、墓地もあるもっと相応しい人物を割り出したのである。
これが歴史の面白さだと思うが、過去に起こったことはそれを立証する不動の証拠がない限り、後人がどんな立場から史実を振り返るかによって歴史の解釈は変わってしまう。
万蔵が第一号と決まってから再来年で40年になり「今更なにを?!」と思う向きもあるだろうが、私はこの新説に大いに興味をそそられた。
そこでこの新たな説を含め、VIの日系史を書いた「Gateway~」を日本語読者のために翻訳したいと考えたのである。
しかし孤軍奮闘では余りにも時間を要する。「では・・・」と考えた末、10人ほどを集め「翻訳チーム」を立ち上げ、分業で挑もうと決心したのである
すでに日本・西海岸・トロントから数人が名乗りを上げてくれたが、もう数人の協力を仰ぎたいと思っている。
興味のある方には更なる詳細を送付したい。疑問点も含めご連絡を切望している。Keiko_miyamatsu@fastmail.fm
URL:http://www.keikomiyamatsu.com/