ホンモノの本物志向を考える
文・モーゲンスタン陽子

三曲合奏図 葛飾応為作(ボストン美術館所蔵)
今月23日まで東京の永青文庫で開催されている国内初の春画展が盛況のうちに終わりそうだ。『北斎と応為』(カナダ人作家キャサリン・ゴヴィエ著)の翻訳を担当させていただいたおかげで、開催については関係者の方からずいぶん早くに伺っていたので、絶対に帰国しようと思っていたのだが、どうしてもスケジュールが合わず、見逃してしまうことになった。
思えば、北斎関係の展覧会にはどうも縁がない。昨年日本を巡回していたボストン美術館の北斎展は、ちょうど東京に帰省中だったにもかかわらず神戸に行ってしまっていた。 パリ・グランパレの北斎展も、予定していた週末の直前にシャルリー・エブド襲撃事件があったために見合わせた。2013年の大英博物館の大春画展も見逃している。そういうわけで、私の見た北斎や応為の作品は、私蔵のものがほとんどである。
昨年のちょうど今頃、先輩作家に連れられて、日本橋の浦上蒼穹堂におじゃました。私は昔から年の瀬の銀座・日本橋界隈が大好きだ。日が落ちると、いたるところに飾り付けられた小さなライトがキラキラと輝いて、空気が冷たくて、みな忙しいながらも、来る新年を厳かに迎えようと準備に勤しむ、暖かくて前向きなエネルギーに溢れているからだ。
浦上蒼穹堂は知る人ぞ知る、由緒ある東洋古美術専門美術商だが、創業者の浦上満氏はその北斎の個人コレクションでも世界的に知られている。前述の大英博物館の春画展のスポンサーでもある。この日、唐や宗の時代の陶磁器を、次から次へと快く見せていただき、もし今ここで貧血で倒れてこの器を割ってしまったら一生働いても私には弁償できないだろう、などと考えながらビクビクしていた。そしてついに北斎、応為(のものと思われる)作品を見せていただいたときには、なんというか、「申し訳ない」気持ちでいっぱいになった。私ごときより、この作品を手にするに値する人たちはもっとほかにたくさんいるだろうに、という感じだった。
ところでこの日、氏にはたくさんの感慨深いお話を伺ったが、なかでも印象に残ったのは、浮世絵を集めていると言ったときの他人の反応でいちばん嫌なのが、「お金持ちですね!」と言われることだ、とおっしゃっていたことだ。
私たちはなぜ、絵を買うことを贅沢な行為と思うのだろうか。
遠い昔、まだ20代で会社勤めの編集者だった頃、私も何度か、他のいわゆる“OL”のように、10万円前後するブランドもののハンドバッグを購入したことがある。給料の半額以上なのだから割合的にまったくおかしな話なのだが、私たち日本人は、若い女性がそんな分不相応な高級品を持つことに、たぶんあまり違和感がない。のみならず、一人前の大人なんだから「本物」の1つや2つ持たなきゃ、なんて、本人もまわりも思っていることだろう。
では、10万円の浮世絵はどうか。おそらく、無理無理、と思う人が多いのではないか。
海外の高級(有名)ブランド品に10万円出せる私たちは、なぜ自国の芸術品に同じ額を出すことができないのだろう。使用頻度が低いから? 10万円でなくてもいい。浮世絵の版画なら、1万円以下でもいくらでも「本物」が見つかるだろう。
実は私は数年前から、旅先の土産には絵を買うことにしている。カナダに住んでいた頃、キューバに2度ほど避寒に行ったが、そのときも地元アーティストの作品を購入した。せいぜい20アメリカドルくらいだ。それでも地元民にとっては大金だし、アーティストのサポートにもなる。その小さな油絵は今でも我が家の壁を飾っているし、私にとっては有名な絵画のレプリカの大判ポスターなんかよりも、ずっと「高級感」がある。
値段や知名度が「本物」を作るわけではない。たとえばある杯が国宝だとしたら、それは作品の美しさや作家の知名度だけでなく、その口あたり、使い勝手の良さも含めて国宝ということなのだろう。だから、先ほどの古陶磁にしたって浮世絵にしたって、じゃんじゃん使ってじゃんじゃん手に取ればいいのだ。だいたい浮世絵など、もとをただせば庶民の娯楽だったのだから。「本物」を毎日の生活に取り入れることで生活にもたらされる豊かさにこそ、もっとお金を払うべきではないのだろうか。
日本に限った現象ではないが、昨今ではアートを無償のものと考える傾向にある。1杯500円のおしゃれなコーヒーは平気で買うくせに、流行りの曲をダウンロードするのに100円払うのは嫌だし、書籍にいたっては、はなから借りるもの、中古で買うものと思いこんでいる人が少なくない。結果、芸術家はタダ同然で働くことを強いられ、巷には適当な作品があふれる。そんな、「本物」を正当に評価しない社会で、ひっそりと買い手を待つ本物の浮世絵たちは、今この瞬間も、海外の観光客に持ち出されているのだ。
浮世絵は、初の春画展が日本ではなくイギリスに先を越されていることからもわかるように、もともと海外での評価が高かった。作品も、江戸末期の開国時に渡来した西洋人にことごとく持ち出されてしまった。外に出すことが悪いと言っているのではない。ただ、国内で正当に評価するべき文化財の評価の順序が内外で逆転してしまったように、ぼんやりしていると、また何か私たちの大切なものを失ってしまうかもしれない。
そういうわけで、次回帰国したあかつきには、新橋あたりの刷物屋で浮世絵版画を物色してみようかな、と思っている。(でも、ドイツに持ち帰ったらやはり国外流出になってしまうかもしれないが。)