ここではない、どこか
文・モーゲンスタン陽子
カナダにお住まいの方々には理解しがたいことかもしれないが、ヨーロッパで暮らしていると、いまだにslant eye「両手で目をつり上げる、アジア人に対する侮辱」つまり「キツネ目」をされることがある。まるで1950年代だ。
しかもタチが悪いのは、それを何か愉快な仕草と勘違いしているふしがあることだ。もちろん、たいていの場合は侮辱なのだが、数年前のオリンピックではスペインの男女バスケットボールチームが、とある広告のために、中国に対して「親愛を込めて」キツネ目をして非難された。また最近、イタリアでは、教会が主催する料理教室で中華料理を作った子供たちが全員誇らしげにキツネ目をして会報に載っていたという。
ばかばかしくて相手にする気にもならないが、相手にしなければならない場合もある。
数ヶ月前、私たちの暮らすドイツのインドア遊技場で、他の家族といっしょに子供たちを遊ばせていた。日本人、または日本でいうハーフの子供たちだ。そのときに、他の10歳前後のドイツ人らしき少年の一団が、子供たちに絡んできた。私たち母親にもキツネ目をする。やがて長男が、紙ナプキンを2枚持ってきた。そこには「中国人のクソ」云々と、侮辱の言葉が書き込まれていた。少年たちが寄越したのだという。ただ、スペルがめちゃくちゃで、それは「ひゅーごくぢんのクチョ」というような、なんとも低脳なメッセージに見て取れた。
長男と友人たちはそれを笑い飛ばし、そのナプキンを破ろうとした。私は何か予感のようなものがして、そのナプキンをとりあえず保管しておくよう言った。それから、「何を言われても気にするな。相手のレベルに自分を落とすな」という趣旨のことを言ったのだが、驚いたことに、ふたりの息子は「へ?」というような顔をして、「わかってるよそんなこと。ママいつも言ってたじゃない」と言い、そして「ぼくたちはカナダを知っているから」と付け加えた。
相手にすべきでないことはわかっている。ミシェル・オバマ夫人の演説ではないが、When they go low, we go high.だ。学校で差別を受ける子供たちにもいつもそう言ってきた。だが、実際にそれを目の当たりにすると、子供たちが傷つきはしまいかと不安になったのだ。そんな私の心配をよそにあっけらかんとしている息子たちを見て、「別の世界」を知っていることでこうも強くなれるのかと、改めて感心した。
幼少期をカナダで過ごした息子たちは、いまだにカナダに対する思い入れが強い。物心がつく前からカナダにいた次男はとくにその傾向がある。息子たちにとってカナダは「決してたどり着けない国」(本グループ嘉納もも・ポドルスキー氏の記事に詳しい)になってしまったのではないかと思うと不憫でならないのだが、一方で、幼少期に培った平等・寛容の精神がきちんと彼らに根付いていることに驚き、うれしく思った。
そして考えた。もしご自身、または愛する者が、いじめにしろ過重労働にしろ紛争にしろ、目の前の過酷な現実の中で苦しんでいるとしたら……ここではないどこか、まったく別の世界が存在することを知ることは、ほんの少しでも生きる希望につながるのではないか。
人間も同じだ。差別をする人間もいれば、それと戦う人間もいる。先ほどのインドア遊技場の話だが、少年たちの保護者までもが私たちの子供を罵り始めた時点で、私は例のナプキンを遊技場の事務所に持って行った。スタッフはみな憤慨し、マネジャーを呼びに行き、すでに帰りがけのその一行をわざわざ呼び止め、かなり長いこと議論をしていた。どちらのグループも、同じドイツ人だ。
ここ数年続く、終わりの見えない暴力に、ときに疲労困憊し、悲観的になってしまうことがある。目の前の現実がすべてだと思うと、人間は絶望してしまう。昨今の政治状況を考えると、残念ながらこの状態は2017年も続き、社会の二極化はさらに進みそうだ。が、少しでも前向きに乗り切りたいと思う。