「エスニック・アイデンティティの変遷」~またひとつの節目をきっかけに考える

文 ・ 嘉納もも・ポドルスキー

先週末、夫と二人で次男Sの大学の卒業式に出席するため、ノヴァ・スコシア州のハリファックス市に向かった。

「このあいだ入学式に付き添ってここに来たと思ったら、もう卒業だなんて」というありふれた、しかし正直な感想が脳裏に浮かぶ。本当に四年の月日はどこに飛んで行ってしまったのだろうか。

高校三年生の秋。Sは進学先を選ぶにあたって「海洋生物学が学べる大学」という条件を挙げ、西は太平洋側のブリティッシュ・コロンビア大学、東は大西洋側のダルハウジー大学、の二つの選択肢を天秤にかけた。要するに親からできるだけ離れたいのか、とひがみたくなるくらいどちらも家から遠いロケーションである。下見に行った結果、息子は静かなハリファックスの街並みが気に入り、ダルハウジーに通うことになった。

なぜか海洋生物学の授業は取らずじまいになったが、やはり四年も住むと情が移るのだろう。卒業後は地元のオンタリオに戻ると言っていたはずなのに、Sはさっさと同じ大学の大学院にアプリケーションを出し、さらに数年はハリファックスに留まると知らせてきた。すっかりこの町に馴染み、あたかも地元民であるかのような風格を漂わせ、親を流行りのフランス人パティシエが営むケーキ屋に連れて行ってくれたり、ロブスターの美味しいレストランに案内してくれる。

これが三年前までは「絶対にいつか日本で暮らせるようになりたい」と言っていた子なのだから、実に興味深い。(Sが大学一年生の夏に日本でアルバイトをした時のことはこちらでどうぞ)

過去の記事でも何度か触れてきたが、国際結婚家庭に生まれた子や、幼少期に国際移動を経験したサードカルチャー・キッズたちは、エスニック・アイデンティティ(=あるエスニック・グループに対する自らの位置づけや所属意識)がなかなか定まりにくい。年齢や住んでいる場所など、その時々の状況に影響を受け、大きく揺れるものなのである。親はその振り幅に惑わされておろおろしないようにすることが求められるが、これがけっこう辛い試練となる。

3才から15才までフランスで育った私にも経験があるのだが、我が家の息子たちの様に大学を卒業し、「大人の仲間入り」をした年齢になってようやく、ある程度の客観性を持って自分のエスニック・アイデンティティの推移を見つめることができるようになる。そして実は一生、このアイデンティティは定まり切ることがないのかも知れない、とあきらめがつくようにもなるのだが…。

さて、ちょっと話は逸れるが、昨年の9月から日本で大学院に通っている長男のLは、滞在半年目になった頃に次のような感想を漏らした。

「日本ってさ、俺の様な外見の奴はいくら日本語を流暢に喋っても、普通の人間(“a normal human being”)として見てくれないんだな、って痛感したわ。」

(ちなみにLはいささか「バタ臭い」風貌をしているが、日本語は極めてネイティブに近い関西弁である。)

Lはテレビに出ているいわゆる「ハーフの芸能人」を見るたびに、彼・彼女たちがもしも日本にしか住んだことがないのであれば気の毒に思う、とも言った。

「俺はカナダに住んだ経験があるおかげで、自分が半人前に扱われない場所がこの世に存在するんだって知ってるけど、あの人らはずっと一生、自分らが『何か変な奴』って思われてる場所で暮らして行くんだもんな。」

確かに、ウクライナ人とイギリス人の血を引く父親と、日本人の母親の間に生まれたLが、「カナダ人としてはそういう組み合わせも全然、アリだよな」と、全く周囲から特別視されないのがこの国、特にトロントという社会環境の特徴であろう。

だがそんなカナダにさえも人種的・民族的マイノリティは存在し、偏見や差別の対象となっている。日本での経験によってマイノリティの気持ちに対する理解が深まったと言っているのだから、学びの機会としては歓迎するべきだと私は息子にアドバイスした。

自分の住んでいる国、(生活のために)住まざるを得ない国、住みたいと思うような国、住まわせてくれる国、それらが一致したりしなかったり、といった問題についてこれからも息子たちは考えていくことになるのだろう。

またひとつ、節目を迎えた我々一家の夏であった。

 

 

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。