「エスニシティ論」は日本で根付くのか

文・嘉納もも・ポドルスキー

「エスニシティ」という概念に遭遇したのは私が大学3年生の時であった。

1980年代のバブル経済真っただ中、日本の大半の大学生が就職難の心配もなく浮かれていた時代だが、私もクラブ活動に夢中で授業にはあまり重きを置いていなかった。

その中で一つだけ、私の関心を引く講義があった。「英語購読」と題されたそれは何人かの担当教授ごとにクラス分けされており、私は「ナショナリズムおよび民族紛争に関する学術論文を読む」という説明文のついたクラスを選んだ。

ethnicity講師はその頃まだ珍しい、アメリカの名門デューク大学の博士号を有し、語学センスが素晴らしく研ぎ澄まされたK先生だった。Nathan Glazer & Daniel Moynihan のそのタイトルも『ETHNICITY』という、この分野ではバイブル的著書を読本にした授業は厳しかった。受講生はどんどん減っていき、最終的には6名が残ったが、全員が一生懸命、毎週の課題を読み込んできたため議論も活発であった。「楽勝」ばかりの大学講義に慣れていた私はこの「英語購読」に大いに刺激を受けたことを記憶している。

Group of 8 のサイトに投稿したエッセイではすでに再三、書いてきたことだが、私は幼少期を海外で過ごし、10年以上のフランス滞在を経て日本に戻ってきた「帰国子女」である。だが日本で高校・大学に通っている内に日本の文化や社会構造に馴染み(周りからはいつまでも「あんたはガイジンだから」と言われていたが)、自分の異文化体験について深く考えることは次第に減っていた。そこにいきなり「民族運動」だの「エスニック・アイデンティティ」だの、私の心の琴線にやたらと響くトピックが投げ込まれたのである。他の学生たちはどう感じていたのか知る由もないが、私はフランスにおけるバスク地方の住民、カナダにおけるケベック州の独立主義者たち、大英帝国におけるスコットランド人などの抑圧されたアイデンティティやマジョリティに対して湧き上がる不満に、いちいち「わかる、わかる」と同情していたのである。

私が「エスニシティ研究」を専門的に勉強しようと思ったのは、この授業がきっかけだったと今でも思っている。

その後、トロント大学の社会学部で博士課程を修了した私は、奇遇にもかつて「英語購読」を担当したK先生から日本の女子大学で教鞭をとる機会を与えられた。課せられた担当授業のひとつが、そう、「エスニシティ論」だったので、移民の歴史や多文化主義の誕生の経緯などについて、アメリカとカナダの類似点や相違点を軸に講義することにした。

なるべく分かりやすいように、と気をつけて作成した12週分の講義ノートを引っ提げてクラスに赴いたものの、やがて目の前にいる学生たちが困惑した表情を浮かべているのが気になりだした。真面目な女子大生たちはちゃんと授業に出席してノートも取っているようなのだが、どうも反応が鈍い。嫌な予感がした。そして中間テストでその予感は的中した。

100点満点でクラスの平均は50点にも満たなかったのである。もちろん、90点以上を取る学生もいたが、要するに大多数が授業に「付いていけていない」という証である。原因解明が至急、必要となった。

「テストが難しすぎたのか?」と、まず考えた。確かに私は自分の学生時代のことを棚に上げて、図書館で自由時間の大半を過ごすトロント大学の学生に照準を合わせていたのかも知れない。だが参考資料は丁寧に抜粋してコピーし、講義の概要を記したアウトラインと共に教室で毎週、配布していたのである。それだけでは足りなかったのだろうか。「~~の概念の定義は?」という問いに対して、記述させるよりも選択形式にするべきだったのだろうか。歴史の授業ではないのだから(エスニシティ論の学者や北米開拓時代の政治家などの)カタカナの人名は求めるべきではなかったのだろうか。そのようなことが原因ならば、改善点はあるように思えた。

しかし、原因が「私の講義の内容がそもそも分からない」ということであれば、厄介である。日本でずっと生活していると「異文化的背景を持つ人々」との共存など、全く経験しないで人生を終える可能性がある。まだ若い学生たちに、移民の苦悩やその人々を受け入れる社会側の葛藤だの、植民地政策や独立運動だの、これまでせいぜい世界史の授業で聞きかじっただけの現象について論じさせようとしても、何から始めて良いのか分からなかったのではないか。講義のメイン・テーマである「エスニシティ」という概念でさえも、学生たちにはピンと来ていなかったのではないか。

そんな初歩的なところに気づかなかった私は、やはり「北米ボケ」に陥っていたのかも知れない。子供のころから日常的に自分とは異なる国・民族・文化の人々とせめぎ合い、共同作業を余儀なくされる環境で暮らしていると知らず知らずの内に鋭敏になる感性が、日本では全く育たないことを忘れていたのだ。以後、なるべく学生たちの実体験に沿うような例えを用いたり、外国映画や芸能界の話題を講義内容に交えて理解を促す努力をした。5年間、担当した授業だったが、最初と最後の年では講義ノートが大幅に変わっていた。

その後、私は再びカナダに戻って来て10年近く経つが、いまだに日本を訪れると、大学で教えていた頃と人々のエスニシティや異文化理解に関するメンタリティはあまり変わっていないという印象を受ける。それはどんな時に感じることなのか、についてはまた次のエッセイで述べたいと思う。

 

注:ちなみに私が授業で論じた「エスニシティ」という概念は主にアメリカあるいはカナダのような国の社会的背景を前提としているが、客観的な「文化」および「人的ネットワーク」、主観的な「アイデンティティ(帰属感)」などの側面から構成され、それらを共有している集団を「エスニック・グループ」と定義していた。

 

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。