「命のビザ」に助けられたユダヤ系カナダ人

文・広瀬直子

2017年のユネスコ「世界の記憶」の候補であった「杉原リスト」の登録が見送りになった、というニュースが11月初旬に流れた。

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クピンスキーさんが家に飾っているという「命のビザ」(日本への通過ビザ)。杉原千畝氏の署名が見られる。

「杉原リスト」とは、1940年代にヨーロッパでナチスの迫害下にあったユダヤ人に、「命のビザ」とも呼ばれる日本行きのビザを発行して何千人もの命を救った日本人外交官、杉原千畝氏の資料のことであるが、見送りのニュースに私は大変がっかりした。最近、杉原氏が救った命のひとつであるユダヤ人男性に会ってお話を伺う機会に恵まれ、とても感動したからだ。直接会って彼の体験について聞くことができたのだが、「この方は、『命のビザ』に救われることがなかったら、今こうして血の流れている生身の身体で私の前にいることはなかった」と思うと、「杉原リスト」がとてつもなく重く思えたのだ。

私は翻訳者なのだが、ある日、彼から翻訳に関するこんな問い合わせの電話をいただいたのだ。

「私は1990年代に日本のジャーナリストに取材を受けました。それは1冊の本になって、私に郵送されてきました。ただ、全部日本語なのでわからないまま置いていたんです。この本を翻訳してくださる方を探しています。私はユダヤ人で、子どものころ杉原という日本人の外交官にビザを発給してもらい、ナチスの迫害のあったヨーロッパから日本に亡命し、命を救われたんです。そのことについてインタビューを受けたんです」

ハーシュ・クピンスキーさんというこの男性は、こ

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通過ビザを得るために叔父が取得したという偽造の証書。

の本(『自由への逃走:杉原ビザとユダヤ人』中日新聞社会部編)を英訳してふたりの子供と5人の孫たちに遺したいのだ、と言った。そういうわけで該当のクピンスキーさんのインタビュー部分を英訳してお渡ししたのだが、以下は、私が彼にお会いした時に伺った話の抄訳である。


私は1933年、ポーランドのリダの町に農場主の息子として生まれました。しかし1940年ソビエトのポーランド侵攻があり、家族は祖父母のいたリトアニアへ引っ越しましたが、もちろんそこも安全ではありませんでした。

リトアニアには、ナチスの迫害から逃れてきたユダヤ人の亡命者が多数いました。そこで、私の両親と叔父が、首都のカウナスで日本人領事がヨーロッパから出ることのできるビザを発行している、と聞きつけたんです。私の叔父がカウナスに行って、「通過ビザ」(写真)を取得してきました。

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ハーシュ・クピンスキー氏

その「通過ビザ」を取得するために使った書類は偽造です(写真)。ほら、私たちがワルシャワで生まれたって書いてあるでしょう? 私たちはワルシャワで生まれてはいません。

私たちが「通過ビザ」を取得してすぐに、杉原氏には辞令が出てリトアニアを去ったと聞いています。私たち家族と叔父もすぐにリトアニアを去りました。祖父母は「家族の荷物になりたくない」と自らの意思でヨーロッパに残り、戦争で亡くなったと後に聞きました。

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1990年代に日本の中日新聞がクピンスキーさんら、杉原ビザに命を救われて生存する各国のユダヤ人に取材をした本

私たちはリトアニアを出発して、電車で太平洋岸のウラジオストクまで行き、船に乗って日本の神戸に着きました。神戸には小さなユダヤ人コミュニティーがありました。日本人の子どもと遊んだ記憶もあります。1年ほどで、日本政府が私たちを上海に強制移送しました。

もちろん、とても大変な日々でした。しかし私はまだ7歳の子どもでしたから、当時は物事の重要さがあまりわかりませんでした。

移民の資格を得てカナダに来た時、私は14歳の少年でした。英語の話せない両親は夜間学校で英語を学びました。父親は酪農業の技術があったのでその分野で仕事に就きました。そして父親は後に不動産業を経営するまでになりました。

カナダには、杉原氏に命を救われたユダヤ人がまだ生活しています。1980年代だったでしょうか、杉原千畝氏は亡き後でしたが、トロントの日系文化会館に彼の未亡人とご子息がいらっしゃって、トロント在住の杉原リストのユダヤ人生存者たちと交流がもたれました。それは感動的な体験でした。

私は(写真の)ビザを額縁に入れて朝食を食べる部屋に飾っています。そして時々「私はなんという体験をしたんだろう」と思うんです。自身の命が救われたことに毎日のように感謝しています。中日新聞にインタビューを受けた際、「杉原リスト」のコピーもいただきました。杉原氏に救われた何千人もの命のリストです。私はこのリストもよく眺めます。何千人もの命です。当時の日本はドイツと同盟国だったわけですから、彼は自身を危険にさらして他の人の命を救ったんです。このことは後世に語りつがれなければなりません。とても大切なことです。

このような人生を生きてきて、ひとつ学んだことは「偏見を持たないで人に接する」ということです。肌の色がなんであっても関係ない。個人と個人の関係なんだ、ということです。「この種の人は悪い、この種の人は良い」とは、絶対言いません。絶対に。

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