「部活」はドイツにも無いらしい ~日独のスポーツ文化の違い~
文・鈴木典子
日本の学校の「部活」(部活動のこと)については、2018年2月と10月に記事を書いたが、先日朝日新聞の書評欄で興味を惹かれる本を見つけた。「ドイツの学校にはなぜ『部活』がないのか 非体育会系スポーツが生み出す文化、コミュニティ、そして豊かな時間」(高松平蔵著 晃洋書房刊)だ。高松氏はドイツ在住ジャーナリストとある。

本書によると、ドイツにはNPOであるスポーツクラブ(Sport Verein)が全土で約9万あるという(例えば人口11万の町に100件など)。複数種目を行う複合型クラブも多く、レストラン併設のクラブハウスはコミュニケーションセンターとしても機能している。筆者はこうした社会に暮らす中から、日独のスポーツ文化、社会、教育の違いを論じており、私が前から日加のスポーツ文化の違いについて感じていたことと大いに通ずるところがあったので、紹介したい。ドイツについては何も知らないので、あくまで本書に書かれていることを私なりに理解したものであることをお断りしておく。
まず、書かれている主な日独の違いについて、東京大学教授本田由紀氏の書評が非常にわかりやすいので、抜粋・引用させていただく。
(前略)社会全体に広がる「公共空間」(日本の「お上」とは違う)、「連帯」と「助け合い」の意識(日本の「絆」とは違う)、「タメ口」カルチャー(日本の「体育会系」とは違う)、教育における「自己決定」の重視(日本の「スポーツバカ」とは違う)等々が幅広く論じられている。
余暇時間が確保されたうえで、楽しみながらデモクラシーを学び、移民など社会的弱者を包摂する社会運動としての意味も持つスポーツクラブ。彼我のあまりの違いに唖然とする。(以下略)
この日独比較について、本書の引用を中心にもう少し説明を加えてみる。
公共空間:日本社会は自治会などの生まれたとき(または住み始めたとき)から「地縁・血縁でつながっている村的な組織」で支えられているが、ドイツは自分の意思で加入を決められるNPOによる「『赤の他人の集まり』を前提とした都市的な組織」が支えており、文化政策は社交場所(知り合う空間)の提供=「公共空間」を仕事の一つとしている。日本では「公共=お上」(役所や政府から降りてくるもの)だが、ドイツでは誰でも出入りでき、自主的に問題提起やイニシアティブをとれ、自分たちで作るものである。
個人と個人をつなげる「連帯」は個人同士の自然なまたは仕組みとしての助け合いで、地縁・血縁をベースにした「絆」は切っても切れないつながり。
ドイツの「社会的」「連帯」については、今一つ私自身が理解できていないのでうまく説明できないが、「絆」が時には枷や負担になり、作ったり切ったりするのが容易ではないことは良くわかる。
ドイツ語には二つの二人称(社交称「Sie(あなた)」と親称「Du(おまえ)」)があるが、スポーツクラブは「伝統的に平等性を強調する特徴」があり、加入すると全てDuを使い、平等な「仲間」となる。日本のスポーツ文化は「体育会系」で、特徴として「『指導者の強すぎる権威』があり、『先輩後輩システム』という序列原理」がある。
この特徴のもととなっているのも日独の社会の違いである。クラブを含めドイツ社会は赤の他人が集まっている都市的集団なので、自分がどういう人間なのかを一から説明しなければならず、逆に自由に自分の意見を表明できること、それが排除されないことがドイツの人間関係の築き方である。日本社会は地縁・血縁でつながっている村的集団なので、「『人間関係の秩序、権威』のデータベースを皆持っていることが大前提」で、「空気を読み、強い忖度」が人間関係を維持する上で重要となり、自分の意見の表明は秩序を壊す可能性が高い。筆者はこの特徴の違いから、ドイツのスポーツでは「いじめが発生しにくい」と説明している。
日本のスポーツ文化は学校の「タコツボ構造」の部活でスポーツするしかないため、「スポーツバカ」「体育会系」と言われる「自己決定無き状態の狭量なスポーツマン」が多くみられる。これは日本が近代国家になるために「欧米から『役に立つ』技術や制度を取り入れ」たことに代表される。「役に立つ『技術』『ノウハウ』の追求はとても熱心で、高度に発達」し、それぞれの分野での高度化、精緻化は進んだが、「一般的な教養を持ち、社会と広く関連させる発想が乏しい」状態も進んでしまった。
これは、ドイツやイギリス(筆者が英国のパブリックスクールについても例示している)で「スポーツをしているのは数多くある『自分』の一つで」あり、「個人はチームや、チームが属している学校などの組織と自己を同一化することはない」こととは大きく異なっている。
このように、日独で社会の組織の在り方や教育の考え方が異なっており、それが特にスポーツの考え方・とらえ方で顕著な違いとなっていると言える。本書の最後の章で私がとても共感したのが以下の章である。
『Why』のドイツ、「まねぶ」日本
私自身、だいぶ前から気になっていたことである。日本の教育は知識を持った先生・先輩が「教え、育て」るもので、生徒・後輩は「学び、習う」のだが、学びはまねる・模倣する、習うは慣れる・倣うから来ている。いずれも、形や技能を模倣してひたすら繰り返し、慣れて「身体化する」ということだ。教えられた通り、先生や先輩がやる通りにできるようになることがゴールである。習得すべきモデル(またはモデルを提供してくれる人)である指導者や先輩は絶対であり、ここには学習する側の自主性、自分の意見が入る余地はとても少ない。
筆者によるとドイツでは抽象的な知識に価値が置かれていて、それは「知識があれば自分で判断できるという考え方があるから」だという。そのもとになるのは「『自分の人生は自分で構築する』という『自己決定』の人生観」が、19世紀の近代化以降、カント等の理論の影響も受けて広がったためという。
スポーツについても同じで、一流の選手は深い教養を持ち、政治や社会についても自分の意見をもっていて、意見を表明したりチャリティ等の活動を自ら行ったりしている。指導者は選手に競技の技術・知識だけでなく、社会人として教養・知識を持って自分の意見を言える人になれるようにしていると言える。
自己決定の人生観に基づく社会は、仕事も勉強も余暇も含めた全てが個人の人生で、各自が自己決定し、他者の自己決定も尊重する社会である。育児も教育も、子供たちが真に情熱を傾けられるものを見つけ、自分で選べるように、知識と情報を与え、選択を支え励まし、「才能があれば引き上げる」姿勢となる。欧米で早期から職業教育(「Career Study」自分に適正な職業とは何かを考える科目)が行われているのも、この考え方だろう。
仕事がすべて、学校・部活動がすべてではないので、自分が良い指導を受けられる、スポーツなどを楽しむことができないと感じた場合に別のところに移ることは、自分の目標に向かっていく積極的・自主的な行動と考えられる。
一方、筆者が『タイガー・マザー*』を引用してアジア人の育児について説明しているが、子どものために将来を用意し、子どもをより良い大人に「仕立て上げ」ようとするのがアジア人の教育観のようだ。つまり、各自の人生の最終目標を親や指導者が設定して、目標に達するように育てるということだろう。
スポーツなどの「趣味」については、前にも書いたことがあるが、日本の普通の中高生にとって学校の部活動が唯一の活動場所である。その部活は、運動系は当然、また文科系でも大会があって技術の優劣を競う日本の部活動においては、ほとんどの場合「優勝する」、つまりその時点のその分野で最も優秀なチームとなる、または最も優秀な人を擁するチームになることが、部の最大目標である。「勝利至上主義」であり、その目標をかなえるために全員が一致団結して指導者の方針に従ってひたすら努力する。

転職、転校、引越が無いことが普通である日本社会では、一度入った学校や会社で指導者に従い「まねぶ」ことが最も良いことであり、方針に合わない場合も他の学校や会社に移ることは、逃げたり負けたりしたという印象を自他ともに持つことになる。部活動以外の授業や校則でも自分の決定や自分なりの意見を表明する機会の少ない子どもたちには、学校で与えられた目標=チームの優勝をかなえるために貢献できないことは、敗北であり、自分が悪いとしか思えないだろう。
ついでに、小学校以下の子供にとってのスポーツは、「習い事」として地元の少年野球や水泳、サッカー、体操などの教室・クラブなどで行うことが多い。この自ら入る活動でさえ、引越以外で別の組織に移ることは「裏切り」行為とみなされる恐れが非常に高いことを付け加えておく。ただし、欧米カナダでクラブ間の異動が自由かというと、ほかにクラブがなかったり、敵チームに移ることが裏切りとみなされる場合は当然あることを書き添えておく。
ところで私は茶道をたしなんでいるが、多くの師は、疑問があっても「このようにすることになっている」としか言わない。私が幸運だったのは、カナダでも日本でも、師の考える点前(てまえ、手順のこと)の理由や、何を美しい、良いと考えるかを理論的に教えてくれる師に巡り会えたことだ。外国人や初心者は、手順が決まっていて自分流を加える余地のない伝統文化であっても、それぞれの動きや決まりに意味があれば理解しやすいし、そもそも現在の形が完成されるまでにはなぜそうするのか、美意識や自然な流れなどの理由があったはずなのである。(ちなみに、師に合わない場合に別の師につくことは非常に難しく、家や職場との距離や稽古日時に通えなくなるなどのやむを得ない事情が無い場合は、一旦お稽古をやめて師が引退するまで待たなければならないこともあるほどだ。)
教育やスポーツは特に個人差が大きな分野で、各自に向くと思われる競技や科目(各自の才能)に気づかせ、最も力を発揮できる形や方法を指導者が教えた後は、その知識をもとにそれぞれ自分が真にやりたいことを見つけるのは各自の「決定」である。自分の才能を伸ばせる方法がわからなければ、そこで知識と情報を与えるのが親や先輩、先生の役割だろう。正しい自己決定のためには、幅広い競技や科目・分野について知識と経験を持つこともとても大切だと思う。
就職に際して日本人が職種ではなく会社を選ぶのに対して、欧米人が会社でなく職業を選ぶと言えるのも、自分が何がしたいのか、自分には何ができるのかを若いうちから考えているからではないかと思う。
本書の著者がまえがきで、また評者の本田教授が書評で書いているように、ドイツが全て良いのでも、容易にまねができるものでもない。しかし、日加の青少年のスポーツ活動や学校教育・部活動の違いが気になっていた私にとっては、本書の分析はとても納得のいくものだった。日本のスポーツ文化が、子どもたちから始まり本当の趣味として生涯楽しむことができるものになるために、参考になるのではないだろうか。
*タイガー・マザー(エイミー・チュア(Amy Chua)著 齋藤孝訳 朝日出版社刊 2011年)
「欧米人の親は子どもの人格を尊重しようとし、子どもたちが真に情熱を傾けられるものを見つけるよう勧め、その選択を支え、励ましの言葉をかけ、そういった環境を整えてあげようとします。対照的に中国人の親は子どもを守る最善の方法は、彼らのために将来を用意して、子どもたちに何ができるかを気づかせてやり、才能や勤労習慣、それにゆるぎない内なる自信で身を固めることだと思っているのです。」P83