日本に繋がる不思議な縁 

文・ケートリン・グリフィス

去年からエラおばあさんのスクラップ・ブックで知り得た矢島楫子さんの1921年米国平和メッセージ訪問関連について書いてきた。おかげで知らなかった1900年初期の日本女性運動やシアトルの日系社会について理解を深めることができた。しかし矢島さんの「平和メッセージ」パンフレットを大事に取っておいた私の曾祖母、エラ・グリフィスについてまだ何も知らないことが気になり始めた。

スクラッブブックに貼ってあった家族写真。エラおばあさん、オースチンおじいさんそして、真ん中の男性が若くして亡くなった私の祖父(オースチンおじいさんが抱えているのが私の父)。

そこで矢島さんやタッピング夫人同様に、まずは当時の新聞で彼女の名前を検索してみた。禁酒主義であったこと、PTAで活動をしていて、子供は5人いたこと等は知り得たがGroup of 8で取り上げられるような事柄はなさそうだと思っていた矢先、1929年に夫妻で日本へ旅行に行ったことがわかった。この旅行がエラの夫、私の曾祖父にあたるオースチン・グリフィスの二度目の来日であることもわかった。

そこで、今度はオースチン・グリフィスについて検索してみた。ワシントン州上級裁判所判事であっただけでなく「シアトルの公園の父」とも呼ばれていた事を知り驚いた。シアトルのために色々頑張った人のようだ。そしてシアトル日系社会とのつながりもあったことがわかったので、今回はそれを報告したいと思う。

1900年初頭アメリカ合衆国の国籍法ではアジア系移民に帰化の権利はなく、アメリカで生まれた移民の子供たちだけが市民権を持てた。1921年、矢島さんが米国を訪れたころ、やっと合衆国市民として政治参加できる日系二世たちがいた。ちなみに1920年にはシアトルの日本人・日系人は男性約4000人、女性約2000人であったらしいが選挙参加可能であったのはわずか14人だったそうだ(当時女性は17歳、男性は20歳から選挙権が与えられた 注1)。

シアトルでは1922年の春にシアトル市長選挙があり、それに投票できる二世へ向けて教育集会が開催された(注2)。講演者として呼ばれたのが曾祖父であった。「(オースチン・グリフィスは)日系市民 の義務履行、心得べき条項などの注意点、更らに会員の疑義質問に対し丁寧なる説明をなし且つ来たる選挙の議案内容及び候補者の事歴を語った」と当時の邦字新聞『大北日報』に記してある(注3)。また集会の終了後「アイスクリーム,ケーキの饗應あり(グリフィス)判事は趣味ある日本訪問談をなし快談を終り、次にビヂネス,ミーチングを開らき」とあった(注4)。

前回の記事で紹介した1924年に守屋さんの誘いで日本旅行をしたシアトルの「4人娘」もこの選挙対象年齢であったのでこの教育集会に参加したことは間違いないだろう。

当時イベント等には夫婦同行が基本であったが、この日エラおばあさんがオースチンと一緒に参加したかどうかはわからない。相変わらず想像の域をでないが、エラおばあさんもこの日一緒にアイスクリームやケーキを食べ、数か月前の矢島さんの平和メッセージ講演の話や、彼女たちが守屋さんの紹介で今度日本へ行くために資金集めを始めたいこと等を話したのかもしれない。

スクラッブブックに貼ってあったエラおばあさんと娘の記事。

さて、オースチン・グリフィスのことで取り挙げたいことがまだある。1924年の排日移民法について前記事でも述べたがこの法によってその後の日米関係が悪化した。この法の発動に曾祖父は強く反対したことがわかった。法案を発動しないよう署名を呼び掛けただけでなく、積極的に拒否権を求め自らワシントンに赴き当時の大統領に面会を求めている。直接は会えなかったようだが補佐官への面会や、国務省でもこの法を発動しないよう呼びかけた。

しかし結局、彼の働きは聞き入られず排日移民法は施行された。

その後も曾祖父の日系社会との繋がりは続き、ワシントン大学図書館に彼の書籍が残されているが、その中にジェームズ・サカモトとの手紙が数枚あるらしい(ジェームズ・サカモトはシアトル生まれで、ニューヨークでジャーナリストとしてまたプロボクサーとしても活躍したが、シアトルに戻ってからも日系社会のために広く貢献した人物である。注5)

1929年にグリフィス夫妻が日本へ渡った時、タッピング夫妻は横浜に住んでいて当時賀川豊彦の活動を手伝っていた。もしかしたら、同じくシアトルに住んでいたことや禁酒主義や教会絡みの縁で曾祖父母は彼らと横浜で会い、賀川氏にも紹介されたのかもしれない、など想像を膨らませている(賀川の詩がエラおばあさんのスクラッブブックにあることは前回述べた)。エラおばあさんは子供たちや友人へのお土産に着物や浮世絵プリントを買って帰ったのではないだろうか?曾祖父母の家に日本からのお土産の飾りがあったのかもしれないと思うとなんだか嬉しくなった。矢島さん、守屋さん、タッピング夫妻と自分の家族が実は交流を持っていた、などと想像すると楽しくなる。そして私と日本との縁(えにし)を考えると不思議な気持ちになった。

注1)黒川勝利氏の「シアトル最初期の日系市民運動」岡山大学経済学会雑誌 。53ページ。

注2)1921年に合衆国西北部で初めて設立したシアトル革新市民協会 (Seattle Progressive Citizens’ League)日系市民政治団体が主催した。詳しくは黒川勝利氏の「シアトル最初期の日系市民運動」を参照願いたい。

注3)『大北日報』1922 年 4 月 6 日。

『大北日報』(英語名は『The Great Northern Daily News』)は1909年に創設され、シアトルの主要な日系新聞として1942年まで活躍した。シアトルの邦字新聞で『北米時事』もある。

注4)黒川勝利氏の「シアトル最初期の日系市民運動」岡山大学経済学会雑誌 42 2010。

注5)ジェームズ坂本 についてはウィキペディアを参照願いたい:https://en.wikipedia.org/wiki/James_Sakamoto

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