カナダの大学での性暴力に関する取り組み~要は相手の気持ちを確かめてから
文・空野優子
私の職場の大学では、春学期の終わるこの時期から、9月の新学期入学生のためのオリエンテーションの準備が始まる。北米の大学には一般に入学式というものはないが、日本でいう新入生歓迎行事のようなお祭りに加えて、教授紹介、大学内のサービス案内など、新学期の始まる直前の数日間にわたって、大学生活に備えるためのオリエンテーション行事が催される。
さて、この準備に取り組む中で、自分の大学時代を思い出すことがあった。オリエンテーションの中で、性暴力に関する教育プログラムの話が出てきた時のことだ。
20年前、私は留学先のアメリカの大学で、初めてオリエンテーションというものを体験した。英語にも新しい環境にもなれず、ただただ周りにくっついてあれやこれや回ったのだが、その中の一つが学内の劇場での演劇鑑賞であった。
その劇が、単なるエンターテイメントではなく、デートレイプをテーマにしたものだったのだ。英語なので詳細は理解できなかったが、主な内容はこんな感じだ。大学で知り合った男女二人が親しくなり性的関係を持ったのだが、後に女子学生がレイプされたと大学に通報する。調査の中で、「僕は強制はしていないし、彼女は拒否しなかった」と説明する男子学生に対し、調査官は「彼女はイエスと言ったのか」と問い返す。
日本で被害者が性暴力を訴えても、加害者側は暴力などを使って無理強いしなかったことが認められれば、一般に責任は問われずに済むことが多いようだ。一方、アメリカやカナダでは、性暴力が問われるとき、被害者が抵抗しようとしたかは重要ではない。カギとなるのは、相手が明確に同意を示したかという点なのだ。そのため、被害を訴えられた場合、加害者とされる人には、相手がはっきり継続して同意していたことを示す責任がある。継続してというのも重要で、最初は乗り気だったが、やっぱり続けたくないという場合には、同意はいつでも取り下げられる。さらには、教授と学生といった上下関係があったり、お酒の影響などではっきりと意思を示せる状況でない場合には、相手が同意していたとは認められない。もちろんこれは大学生に限らず、性暴力一般の定義である。
10代後半で、初めて親元を離れることの多い大学生にとって、デートレイプなど性暴力は身近に起こりうる危険である。被害に遭わないことはもちろんだが、どんな時に加害者となってしまうのかを理解することもとても大変重要なことだ。また、事件があったときに、被害者と加害者が同じ大学の学生ということも多いため、安全な学びの場を提供する義務のある大学にとっても、避けられない課題となっている。オンタリオ州では、性暴力に関する規則を制定すること、通報を受けた時に、適切に被害者を守る措置をとることなどが、各大学に義務付けられている。
そういう背景から、オリエンテーションの中で、時には性暴力について学ぶプログラムが組み込まれるのである。大学では、被害を防ぐための教育だけでなく、誰かに被害を打ち明けられた場合にどう対応すべきかを学ぶ、学生、職員、教授向けのプログラムなども作られている。こちらは豊富な実例を元に作られており、私自身とても参考になった。また被害を通報した人をサポートする専門のカウンセラーが常駐している。
アメリカに着いたばかりの時に見た劇には衝撃的を受けたが、北米生活が長くなるにつれ、明確な同意の有無で性暴力を判断する考え方をいつの間にか当然と思うようになった。これは、主な被害者である女性だけでなく、誰もが意図せず加害者とならないために必要なものだと思う。また、この考えをもとに、教育の中で、早いうちから自分の意思を伝えること、また、相手の気持ちをを尊重することの大切さを教えている点も記しておきたい。
このような状況のカナダでも、大半の性暴力は通報されることがなく、被害者が性暴力を訴えるには様々なハードルがある。また、社会的、歴史的背景が大きく異なる北米の制度が、必ずしも日本にとって好ましいとも思わない。それでも、性犯罪に関しては、被害者が(危険を冒してでも)抵抗しなかったことを責められる日本の状況を知るたびに、とても悲しく腹立たしい気持ちになる。相手の気持ちを確かめることの大切さへの理解が広まれば、性暴力で傷つく人が少しでも減るのではないだろうか。