「決してたどり着けない国」 by 嘉納もも・ポドルスキー

dhotel今年の夏、次男はカナダの大学生に与えられる長い長い休みを利用して、日本で四ヶ月間のアルバイト生活を体験した。

日程を聞くと、日本滞在の前後に我が家で過ごすのは合計でたったの十日間。主人は少々不服そうであったが、私は次男にとってこれが非常に重要な体験になるだろうと思い、あえて送り出した。

以前の記事でも述べたように、カナダ人の夫と私との間には二人の息子がいる。彼らは幼い頃に日本で過ごした年数が同じ五年であるにも関わらず、兄と弟では日本に対する思い入れの度合いが全く異なる。

長男は14才の時に日本からカナダに戻ると、大好きなホッケーに没頭し、すっかりカナダ式の生活に浸り切った。今ではアメリカのカレッジに通っているが、日本は母親(とオバアチャン)の国であるくらいに思っているらしい。

それに比べて11才で戻った次男は頑なに日本との結びつきを保ち、すでに帰国してから八年が過ぎようとしている現在でも音楽・読書・ゲームなどの趣味関係は全て日本のものに傾倒している。

この違いは、長男の方が「本場でホッケーがしたいから」、と希望してカナダに戻ったVS次男は兄貴の都合で嫌々日本を離れた、というところにも由来しているのだろうが、いずれにしても面白い現象だと私は思っている。

さて、高校時代、次男は

「どうすれば将来、日本で暮らせるようになるんかなあ」

という意味のことをしばしば真剣に口にした。

その都度、私は頭ごなしに息子の夢をつぶすようなことは言わないようにしていたが、内心、彼の日本での就職・定住は難しいだろうと思っていた。

ひとつは、次男が医学部を志望しているという点。今後、日本の医療制度が大きく変化を遂げたとしても、カナダで医師免許を取った者がそう簡単に日本で開業できるとは思えない。また、たとえ医学の道に進まなかったとしても、日本で教育を受けていない彼に就ける職種はとても限られているように思う。

しかしこのような事は、まだ単なるロジスティックスの問題である。

私が一番、懸念していたのは日本が息子にとって実在しない「理想郷」になっているのではないか、という点である。

次男は日本語が流暢だ。読み書きもおそらく同年代の日本の青年と比べてそう遜色がないだろう。五年間、日本に住んだ経験があり、その後何度も訪れているので、息子自身は日本での暮しに不自由するはずがないと思っている節がある。

だが彼は本当の意味で、日本で、日本社会の一員として、生活したことがない。

2001年から2006年の間、私たちが一家で日本で暮らしたのはあくまでも「一時滞在者」として、であった。子どもたちが通ったのはインターナショナル・スクールで、これは一般社会から隔離された世界であると考えてよい。もちろん、日本には親戚がいるし、五年もの間には現地のホッケーチームに所属していたこともあって、家族ぐるみで付き合うようになった日本人の友達もたくさんできた。だがいつかはカナダに帰る、という前提はそれなりの重みを持つ。

その後の訪問にしても「お客さん」として過ごす夏休みは真の生活体験とは言い難い。したい事だけをして、会いたい人とだけ会うのだから、楽しいに決まっている。

だからこそ、私は次男に今年の夏、日本での長期のアルバイト生活を勧めたのである。

実は私自身、小さい頃に父の仕事の関係でイギリス・フランスに合わせて十年以上、滞在した経験がある。それを踏まえて、日本では「海外・帰国子女」、アメリカなどでは「Third Culture Kids」と呼ばれる子どもたちを研究のテーマとしてきた。

親の都合で国際移動を重ねた子どもたちは、自国を離れたことのない子どもに比べて、自分の居場所やアイデンティティについて悩むケースが多い。どの国が自分の本当の故郷なのか、どの文化が自分にとって自文化と言えるのか、誰が自分の同朋なのか。自明であるはずのことが彼らには自明ではない。

このような子どもたちが抱える色々な悩みの中で、私が一番酷だと思うのは

「決してたどり着けない国」(*注)

を彼らが一生、求め続けることである。

駐在員家庭として過ごしたアメリカ生活は楽しかった。昔、通っていたシンガポールのインターナショナル・スクールが忘れられない。ドバイの外国人コミュニティのきらびやかだったこと。

一時滞在者にしか得られない特殊なライフスタイル、それがずっと続けられるものではないことを子どもたちは理解できない。移動する段になって、どうしてこの生活を後にしなければならないのか、いつになったらあそこに戻れるのか、と疑問に思う。そうして記憶の中のアメリカ、シンガポール、ドバイは、「決してたどり着けない国」であるにも関わらずその後も延々と懐古の対象となる。このことを教えるべき親も、時には一緒になって勘違いを起こしていたりするのでいよいよ厄介である。

私は早く、次男に見極めてほしかった。日本が果たして彼の思うような場所なのか。そのためには身をもって実感してもらうしかなかった。

幸い、大阪の一流ホテルでベルパーソンとして雇ってもらうことができ、早速オリエンテーション、研修、見習い期間などの規律正しいプロセスを体験することになった。寝泊まりこそは私の母や友人の家に置いてもらえるようお願いしたが、一日の大半は本物のお客様を相手にする厳しい職場で過ごした。

途中、日本の暑い夏にバテてしんどい時期もあったようだが、生来、真面目な性格の息子は職場で先輩たちに可愛がられ、色々と興味深い事態にも遭遇した様だった。メールやスカイプでのやり取りを通して、ちゃんと適応し、有意義に過ごしていることが感じられ、私は彼が初めての長期間のアルバイトで多くの事を学習していると確信した。

8月も終わりに近づいたある夕方、息子は我が家に戻って来た。

四カ月ぶりに会う愛犬と嬉しそうにたわむれ、残り少ないオンタリオの美しい夏の夕陽を浴びて裏庭のプールで泳ぎ、バーベキュー料理を堪能した。

そしてひとこと

「俺、やっぱ日本、もうええかな、って」

と言った。

一週間後、次男はまた荷造りをしていそいそとノヴァスコシアの大学へと出かけて行った。次の休暇に彼がこちらに戻って来た時、私はもう少し詳しくあの一言の真意を聞きだしてやろうと狙っている。

今度こそ、あなたはカナダに「帰って来た」のか、と。

(注*):フランスにLe pays où l’on n’arrive jamais (André Dhôtel, 1955) という小説がある。主人公の少女は幼い頃に両親とヨーロッパ中を転々とし、そのおぼろげな記憶から実在しない国を創り上げてしまう。思春期に入ってその国を探し求めるのだが、タイトル通り「決してたどり着けない国」を見つけることができずに途方に暮れる、という物語である。

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