故・俳優・高倉健が行き着いた「駅」 by 田中裕介
健さんが没してから、やっと彼を取り巻く神秘のveilが剥がされたような気がする。実は、「彼は同性愛者なんだ」と80年代に聞かされたことがあって、「へえ、そうか」と思っていたけど、石野真子に惚れ込んで、札幌の寿司屋を借り切って口説き落としたというし、寡黙だということだったけど、健さんの検眼をいつも担当していた眼鏡店に勤める友人は、メールで「とても気さくでよくしゃべる人だった、映画『Deer Hunter』が大好きで何度見たかわからないといっていた」と書いてきた。思わず、テーマ曲「Cavatina」が甦ってきた。
1990年だったと思う。映画「駅」の脚本家の倉本聰さんがトロントに講演に来た時、取材インタビューした。何故に「銭函」の「駅」なんだべか?と質問した時、ついでに 「僕の母の実家は積丹の古平で、父は小樽なんです」と自己紹介すると、倉本さんは急に身をのりだして、「実は東京から北海道に引っ越す時、最初は古平の先の美国の高台に家を建てるつもりだったけど、そこは岩盤上で水が出ないことが分って、仕方なく富良野にした」という。「北の国から」の舞台が積丹だったかもしれ ないのだ。今も口惜しい。それに、あの岬の岩盤の上には、僕の叔母が持っていた地所があって、僕に「いつでも移り住んでいいよ」といっていた。気分は一層複雑。
映画「駅」(1981)は両親と一緒に見に行った。お袋を真ん中に三人並んで見るなんて、あれが最後だった。倍賞千恵子が一夜を過ごした後、恥ずかしげに「私、声、大きいかったしょ」という、高倉健は「いいや」というが内心の声で「樺太まで聞こえるかと思ったぜ」という。お袋が「ギャー」と高笑いした。そうだね、そ ういえば、お母さんも声が大きくて、子供部屋まで筒抜けだったよね。お父さん、頑張ったよな、あんなじゃじゃ馬娘を飼い馴らしたんだもの、と親父をいた わってやりたくても、もう意識も白濁して胃ろうのまま6年も病院で寝たきり。祝津岬付近の沿岸を魚場とする網元の三代目で、鰊が群来ていた頃の羽振りの良さは、敗戦とともに消滅。父には借金しか遺っていなかったという。
映画「駅」の底に流れるのは祭りの後の寂しさで、一次産業に従事した移住者たちの末裔の姿でもある。鰊業も石炭も材木も半世紀と維持されなかった。それでも人は土地を愛し、縛り付けられている。そうか、「Deer Hunter」にあったのも、米国のロシア系移民の町にくすぶる若者たちの土地への愛着と義兄弟の契りだった。健さんが夢中になるのも頷ける。
やっと倉本さんの真意が分った。「銭函」駅は栄華盛衰の象徴だった。その「終着駅」に執着する不器用な男と、そこから泣きながら旅立って行く女の話だった。
降旗康夫監督「駅」(1981)をもう一度劇場で見たいなと思う。倉本聰さんの北海道弁を混じえた講演も聴きたいものだ。トロントという寒い土地に住みながら、なお寒い北海道に思いをはせるのは何故だろう。きっと、オンタリオ湖のカモメに「深酒させられた」せいだろう。