ノルディック・エクスプレス号で巡るCôte-Nord(コート・ノール)の旅
文・モーゲンスタン陽子
17年前の8月、ケベック州のセント・ローレンス川北岸の、コート・ノールと呼ばれる地域を貨物船に乗って旅したことがある。トロント・スター紙に掲載されていた記事を見て思い立った。
ケベック州のメインハイウェイであるルート138号は1998年当時Natashquanで途切れ、以東約400kmは、冬場のスノーモービル・ルートを除き、陸路がなかった。(2013年にKegashkaまで拡張)
ノルディック・エクスプレス号は沿岸に点在する村や先住民居住区に食料や医療品などの物資を届けるために、RimouskiとBlanc-Sablon間を週単位で往復する貨物船である。一般乗客も少し受け入れている。船室は二段ベッド二組だけの簡素な四人部屋だが、相部屋になることはほとんどない。
8月はコート・ノールでは秋を意味する。ガスペ半島の手前、南岸のRimouski港を出発したノルディック・エクスプレス号の甲板で、私はウィンドブレーカーのファスナーを引っ張り上げた。乗客は観光目的のケベック住民が少しと、大半はなぜかヨーロピアンだった。雑誌の取材で来たというイタリア人カメラマンもいた。
フランス人探検家ジャック・カルティエは1534年にこの地を「神がケインに与えた土地のようだ」と言った。最初の停泊地、北岸のSept–Îlesを過ぎたあたりから本格的な旅が始まる。はじめに断っておくが、ノルディック・エクスプレス号は旅客船ではない。停泊中積荷を降ろす間、旅行者は自力で観光するのである。
2日目の午後、アンティコスティ島に着いた。セント・ローレンス河口に横たわるこの全長222kmの島は、かつて多くの船が座礁したため「セント・ローレンスの墓場」の異名をとった。
しかし、そんな不気味な名称とはうらはらに、島は野生動物や野鳥観察のメッカで、キャンプサイトなども整った避暑地である。もともとこの島はフランス人Henri Menier氏の所有であった。氏は19世紀末、島に多種多様の生物を持ち込み、中でもオジロジカは12万頭まで繁殖していて、私たちも間近で観察することができた。
次の寄港地Havre-Saint-Pierreのすぐ手前には、1984年に国立公園に指定されたl’Archipel-de-Mingan「ミンガン群島」がある。数キロにわたり点在する約40の島々は、侵食された石灰の奇岩群で知られている。私たちが到着したのは日没後だったが、船がライトアップしてくれたため、それらを眺めることができた。小さな民俗博物館もあり、閉館時間をとうに過ぎていたが、この日は乗客のために特別に開けておいてくれた。ここで人生初のオーロラも目撃。
船上から眺める星空もすばらしい。カシオペア、オリオンなど見慣れた光景だが、こころなしか空全体がぐっと近くに迫って感じられる。5月から7月にかけてはイルカ、アザラシ、クジラ、ときには氷山まで観測できる。
3日目はKegashkaに寄港。このあたりまでくると、セント・ローレンスはもはや海のように感じられる。この村はカニやロブスター漁が盛んだ。ヒッチハイクで内陸部のケガスカ滝を見学し、午後は先住民Montagnais族の居住地、La Romaineへ。見かけるのは不思議と女性ばかりだ。歩いていると、蜂のように獰猛なブヨの大群が襲ってくる。ジャケットに内蔵されている虫除けネットを引き出し、顔を覆う。
Montagnais族は漁や狩猟、手工芸で生計を立てている。ある個人宅におじゃましたが、システムキッチンなど、設備は極めて近代的だ。アザラシの皮で作ったモカシンなども見せてくれたが、アザラシ猟に対する世界的圧力の高まりを受け、生活が厳しくなっているようだった。
4日目、St-Augustan到着。この村は以前、現存する北米最古の企業にしてカナダ最大の小売業者、ハドソン・ベイ社の毛皮貿易の中心だった。小型ボートでさらに13km離れた島へ向かう。家々はどれもパステルカラーで彩られ、その光景はノヴァ・スコシア州のユネスコ遺産、ルーネンバーグを彷彿とさせる。
到着した島でも、私たち観光客はいつものようにヒッチハイクをするつもりだった。たまたま近くにいた土地の男性に訪ねると、「今、手が離せないんだよね……」と言って近くの車を指し、「それ、俺の車だから、好きに使っていいよ。終わったらその辺に停めておいてくれればいいから」と、ポンとキーを手渡してくれた。
ところで、狭い船上で寝食を共にしていれば、自ずと乗客どうしの親交も深まる。次第に観光だけでなく、船上での多くの時間を共に過ごすようになった。
とくに食事の時間がすばらしい。各漁村で仕入れた新鮮な魚介類をその場で調理してくれるのだから、シーフード好きにはたまらない。毎日が海の幸だが、同じ料理が出たことがない。セント・ローレンスの魚介類がそれだけ豊富ということだ。
食堂のウェイター、ベルナルドの行き届いたサービスとていねいな物腰は一流レストランを思わせる。実は、旅行者どうし、とくに後から乗船した者がすんなりと馴染めるよう、さりげなく相席をすすめてくれるのもこのベルナルドなのである。乗客どうしがあんなにうちとけたのも、ひとえに彼のおかげだろう。
4日目の晩、船はようやくBlanc-Sablonに到着。ここからわずか2km東に行けば、そこはもうニューファンドランド&ラブラドル州である。あいにくの雨だったが、ニューファンドランドの稜線が間近にぼんやりと見える。単なる移動手段としてノルディック・エクスプレス号を利用する客も多く、フェリーでニューファンドランドに向かう客はみなここで下船した。
Blanc-Sablonは16世紀、バスク人の捕鯨の拠点であった。沖合いすぐ近くのGreely島は、1928年4月13日、初の大西洋横断を試みたドイツの飛行機が墜落した地である。
ここでノルディック・エクスプレス号は一晩停泊する。クルーにとっては唯一の息抜き地点でもある。私たちは船長やクルーとともに村で唯一のクラブに繰り出し、ビールとダンス、そして何より、おしゃべりを楽しんだ。
クルーの多くはやはり北岸の漁村の出身である。おもしろいのは、英語系とフランス語系の村が隣り合わせに交互に続いていることだ。Vieux-Fortなど、フランス語名を冠しながらも実は英語系住民が過半数の村もある。クルーのある女性 は、「息子は学校でフランス語を使わなければならない。でも私たちはイングリッシュよ。ケベックはフレンチだけのものじゃないわ」とこぼした。
翌朝、La Tabatière に到着したとたん、ほかの乗客にたたき起こされた。船長のモリスが特別に車を出してくれるというのだ。5分で身支度を整え、ピックアップトラックの荷台に飛び乗った。
La Tabatière とはMontagnais族の言葉で「魔法使い」という意味だ。北岸のカニ・ロブスター漁の拠点でもある。次の停泊地 Tête-à-la-Baleineも然り。10kmほど沖合いの風光明媚な I’Île Providenceはその昔、 漁師たちが夏のあいだ移り住み、漁の拠点としていた。しかし、モーターボートによる移動手段の発達と漁業の衰退とにより、住民はたったの4人になっていた。(当時)

コート・ノールの風景 ©TQ/Huard, Jean-Pierre
ノルディック・エクスプレス号は往復路とも同じルートを辿るが、復路では、往路で深夜に停泊したため観光できなかった村に日中停泊するよう配慮されている。船内でも、エンジン部を見学させてくれたり船長がギターの弾き語りを披露してくれたりと、飽きることはない。
Harrington Harbourはボードウォークが村中を覆う、一風変わった光景の漁村。家々はカラフルで美しい。海産物加工工場では特大カニ脚が4本$6という安さだ。船に戻り、シェフのルドルフにレモンを分けてもらって、この絶品カニ脚を楽しんだ。
最後の晩、ふたたびHavre-Saint-Pierreに寄港。船長とクルーと一緒に、ケベック一おいしいと地元で評判のシーフードレストラン、Chez Julieへと繰り出す。その後は船長の部屋に集まり、夜中まで語り合った。そしてふたたびRimouskiへ。
コート・ノールの旅に豪華さや便利さを求めてはならない。観光客のためのアトラクションなどあるはずもない。だが、既成の旅の概念を払拭したければ 、バックパック1つでぜひノルディック・エクスプレス号に飛び乗ってほしい。手付かずの自然と、トロントとは違うカナダを発見できるだろう。
ノルディック・エクスプレス号情報http://www.relaisnordik.com/en/home/24.aspx
コート・ノール観光情報http://tourismecote-nord.com
(本稿は著者が2000年に『地球の歩き方』に寄稿したものに加筆・修正を加えたものです)