「帰国子女」に憧れてはいけません(その①)

文 ・ 嘉納もも・ポドルスキー

1970年代半ば頃から日本で「帰国子女」の存在が目立ち始めた。

第二次世界大戦後の高度経済成長に伴って、日本企業の海外駐在員が劇的に増加した。多くの場合、彼らには帯同する家族がいたのだから赴任を終えて帰って来る子どもたちが増えるのも当然だった。

外国にいる間は現地校に通っていたその子たちが、日本の学校現場に戻ると色々な摩擦が生じた。だが最初こそ「日本語や日本の勉強のできない可哀想な子ども」と見られていたものの、10年後には「国際化時代の担い手」としてもてはやされるようになる。いつの間にか日本人の一般常識の中で「帰国子女」は外国語(=主に英語)のできる、国際感覚(これもあやふやで怪しい概念だが)に優れた、羨ましがられるべき存在であるとのイメージが固定化した。

私は大学の講義でも、帰国子女(「帰国生」とも呼ばれる)の保護者を対象としたセミナーでも、また一般人向けのコラムや講演でもこういったイメージの打破に努めてきたのだが、頑固なステレオタイプに歯向かうことはなかなか難しい。

私がよく耳にするのは「帰国子女みたいに小さい頃から外国に住んでいたら、私だって英語がペラペラになったのに」といったニュアンスのコメントである。自分は英語コンプレックスだけど、それに比べるといとも簡単に英語を身に付けた彼・彼女らのなんと羨ましいことか、ということだろう。

だが実際は英語圏に住んでいた帰国子女が全体の三割にしか満たない[注1]ということをさておいても、このような思い込みは間違っている。

何才で渡航したのか、何年間その土地に住んでいたのか、通っていた学校では何語で教育を受けていたのか、等々の要因によってその子の外国語の習得度は違ってくる。また習得していたとしてもその過程に「いとも簡単に」という表現が当てはまるかどうかは疑問である。

幼少期にいきなり言葉のわからない教室に一日中放り込まれた子どもの気持ちは、そのような経験を持たない人には理解できないだろう。私の愛読書である米原万里のエッセイ集には、彼女が1959年に父親の赴任に伴ってプラハのソビエト学校に編入し、それまでは全く聞いたこともなかったロシア語の授業を受けさせられた時の事が詳細に綴られている。

プラハに渡った当時9才だった彼女は、その後5年間の滞在を経てロシア語をすっかりマスターし、やがては日本におけるロシア語同時通訳の第一人者となる。だが先生や周りの生徒たちが言っていることがわかるようになるまでの学校生活が、逃げ場のない、なんとも苦痛な経験だったと述懐している。

yoneharabookcover兄と私は米原さんとほぼ同時代に幼少期を海外で過ごしている。父がまずはロンドンに赴任を言い渡されたのだが、我々家族が到着してほんの10か月後にはパリに転勤が決まった。兄はそのせいで日本で小学校一年生を終えた後、イギリスの小学校一年として数ヶ月を過ごし、少し慣れたかと思った矢先にまたフランスで同じ学年をやり直すという目に遭っている。

英語がようやくカタコト話せるようになってホッとしたところに今度はフランス語である。それでも一応、毎日学校に行く兄のノートを母はある日、めくってみたそうだ。するとどのページにも、来る日も来る日も(兄の得意だった)動物や鳥の絵が描いてあったと言う。そして登校拒否をしない代わりに兄は一時期、外食を嫌がり、レストランに行くと気分が悪くなるという「無言の症状」が出たのである。

時代によって、あるいは行った先の社会状況によって多少の違いはあるだろうが、学校で言葉のわからない、外見も異なる子どもに対する周りの子どもたちの扱いはしばしば残酷である。母はある日、幼稚園から小学校へと上がろうとしている私に兄がアドバイスをしているのを聞いたそうだ。

「休み時間に校庭に出たら、ずっと壁を背にしていたら良いよ。そうしたら後ろから突き飛ばされないですむから」

私は兄のアドバイスのおかげか校庭で転ばされることはなかったが、オーバーのベルトを引きちぎられたり、腕をねじられて帰って来たことはあったそうだ。言葉に不自由がなくった後も、アジア人の珍しい当時のフランスで人種差別を受けたことは一度や二度ではない。母と買い物に行ったスーパーで泥棒扱いされたり、嫌な言葉で蔑まれたりもした。自分たちがよそ者である、ということは何かにつけ感じさせられて育った。

兄や私のフランスでの子供時代がことさら悲惨だったと言いたい訳ではない。不快な思い出以上に暖かい隣人関係や素晴らしい友情に恵まれたし、優れた学校教育を受けることもできた。ただ、「何の苦労もなしにフランス語が喋れるようになった」と片づけられるほど私たちの体験が単純なものではなかったことは確かである。

さらに言えば、日本に帰ってからおおむね順調に学校や社会に適応できた私たち兄妹のケースは決して「普通」ではない。私の知る範囲でも親の転勤のタイミングが災いして苦労した人たちは大勢いる。

海外駐在をしている間、親がもっとも心を痛めるのは「現地の生活に馴染む」ことと「帰国後の生活に備える」ことの板挟みになることであろう。だが子どもの頭はあまり先の事を考えるようなしくみになっていない。今、目の前にある事態にどう対応するか、で精一杯なのである。そのため帰国が決まると非常に理不尽な仕打ちを受けた気分になるのだが、「親の仕事のため」という印籠をかざされると従うしかない。またその印籠があるからこそ、親も子どもも納得できるのだと思う。

異文化の間(はざま)で育つことの長期的な影響は、予測不可能な形でその子その子の人生に表れてくる。吉と出るか、凶と出るか、その両方が混ざったものか。親はなるべく良い方向に行くように、出来る範囲で環境を整えながらハラハラと見守るしかない。

帰国子女の体験を持ち、このテーマを専門的に研究している私自身、親になって初めて事の重大さに気が付いた感がある。以前書いたGroup of 8 のエッセイにも登場した息子たちには、私の仕事のために日本で過ごさせた時期があるが、その体験が彼らに及ぼした影響は私の想像を超えていた。また、おそらく何年か後にならないと息子たちの口から全貌を聞くことはないだろうとも覚悟している。

だからあえて言いたい。

「帰国子女」に憧れてはいけません。得る物があるのは失う物もあるからです。

子どもを外国で育てるというのは親として重大な責任を負うことを意味します。その子の人生に結果が予測できない化学反応を起こさせることになるからです。どうしてそのような体験をさせたのか、説明ができないと後々、困ることは必至です。あなたにはその覚悟がありますか?

次回のエッセイでは私がこのトピックを選んだ動機となった、ある友人からの質問について述べる。

「両親が日本人なのに日本国内で子どもをインターナショナル・スクールに通わせることについてどう思われますか?」

この質問に対する私の答えは…

[注1] 平成27年度 外務省 海外在留邦人子女統計(http://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000095370.pdf)

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