EURO 2016:「憎しみのスタジアム」を繰り返すな
文・モーゲンスタン陽子
欧州サッカー選手権の季節がふたたび巡ってきた。欧州選手権もワールドカップと同じく4年おきに開催されるが、互いに2年ずつずれているため、ドイツが優勝した2014年W杯から2年しかたっておらず、久しぶりという気はあまりしない。

ドイツのニュルンベルク市のスタジアム。2006年W杯にスタッフとして参加したときに著者が撮影。©Yoko Morgenstern
今大会、第15回UEFA EURO 2016の会場はフランス。6月10日より1ヶ月間、パリをはじめリヨン、マルセイユ、ボルドーなど、フランス全土の会場で試合が行われる。昨今の欧州の状況を考えると、残念ながら治安に不安を覚えざるを得ない。
4年前のポーランド・ウクライナ大会のときは、テロへの不安は、少なくとも一般市民のあいだではほとんどなかったが、まったく別の問題が争点となっていた。それでも、4年前はまだ平和なほうだったのだなと、不思議な気持ちで思い返す。
2012年の6月22日、私はポーランドのグダニスク(ダンツィヒ)にいた。バルト海に面するこの港町は、ハンザ同盟都市の1つで、中世の趣がそのまま残り、夢のように美しかった。
私はこの街を、カナダ人の友人と、EURO 2012欧州選手権の試合を見に訪れたのだった。手にしたチケットに踊る文字はマッチ26:ギリシャ対ドイツ。
この友人はギリシャ系2世のカナダ人で、もちろん彼はギリシャチームの青いユニホームを纏っていた。会場のスタジアムに向かうストリートカーの中で、向かいに座る3人の若いドイツ人青年たちと会話を始めた。どこから来たのか、とそのうちの1人がたずね、彼は「カナダ」と答えた。続けて青年たちは、カナダについて、次々と質問し始めた。トロントのギリシャ系人口とか、そういったことを。
平和なものだった。少なくともストリートカーのこの部分、私たちのまわりだけは。ドイツ人の若者のご多分にもれず、青年たちは流暢に英語を話した。しかし実際、車内は「スーパー・ドイチランド!」と呪文のように大声で繰り返す、ドイツチームのサポーターでいっぱいだった。彼らが叫ぶたびに、本当に車内が揺れた。
すると突然、背後のドイツ人が、ドイツ語で、「ユダヤ人は出て行け!」と叫んだ。
急に車内が静まり返る。「カッコ悪」と、ドイツ人青年の一人が控えめに言った。「何考えてんだよ」と、もう一人。
「外人は出て行け!」
私は振り返った。スキンヘッド、鋲付きの黒い革ジャン。あくびが出るほど基本的ないでたちだ。
私たちの会話を聞いていたのだろう、ネオナチ男は「ギリシャ人は嫌いだ! カナダ人は嫌いだ!」と続けた。
自分に対する侮辱なら受け止められる。でも、大切な友人への侮辱は受け止められない。
「ここはポーランドなんだから、あんたこそが外人でしょ」
と、思わず言い返してしまった。
男はショックを受けた表情で私を見つめ、氷のように固まった。私はアジア人で、女性。自分に言い返してくるとは夢にも思わない人物だ。しかも、ドイツ語で。
「おまえなんか……」男はおどおどと言葉を探した。「おまえみたいな女の子となんか、俺は口きかねえよ!」
女の子。
これが、私たちのマッチ26だった。この悶着のあと、私たちは、というか私は、周りにいたイギリス人やカナダ人に誘導され、隣の車両に移った。ネオナチに言い返したのが賢明な行為とはまったく思わない。ただ、キレやすい性格は今さら治しようがない。
試合は、ドイツの圧勝だった。その後終日、私の友人は、美しいグダニスクの街中を、溢れかえるドイツサポーターたちに押され小突かれして、歩かねばならなかった。
その6日後の6月28日は、準決勝のドイツ対イタリア戦だった。驚いたことにこの試合は、ドイツチームの異例の反人種差別スピーチで幕を開けた。
あとからわかったことだが、2012年の欧州選手権は人種差別の温床だったのだ。大会中の数々のヘイトクライムが報告されている。前イングランドチームのキャプテン、ジャマイカ系の「ソル」ことキャンベル選手は、過去のスタジアムでの暴力行為を見て、家族には自宅観戦を勧め、スタジアムには来ないようにと、 各国サポーターの人種差別・暴力行為を特集したドキュメンタリー「Stadiums of Hate憎しみのスタジアム」(BBCパノラマ)で語った。
私たちの場合はドイツ人によるものだったが、ポーランドのサポーター間では伝統的に反ユダヤ主義、同ウクライナでは人種差別が根強く、イギリス政府はEURO 2012開催中にウクライナに向かうアジア系および黒人の自国民に特別に注意を払うよう呼びかけたという。
あれから4年。欧州では暴力的な事件が立て続けに起こり、社会は右傾化し、人種間にはさらなる深い亀裂が入ってしまった。しかしながら、前大会の経験があるにもかかわらず、人種差別対策を耳にすることはほとんどない。UEFAの公式ページに、反レイシズムを訴える各国語のビデオがあるくらいだ。
ロイターによると、フランス政府は今大会開催にむけ、9万人以上の警察官・兵士・警備員を動員するという。アメリカ政府もフランス大会がテロの標的になる可能性が高いことを示唆し、自国民に渡航を控えるよう呼びかけている。
悲しいことに人種差別も前体会とは異なる相関図で予測されるが、EURO 2016 のスタジアムが憎しみで満たされないことを祈るばかりである。