多民族の国カナダの目指す平等とは
文・空野優子
11月4日掲載の嘉納もも・ポドルスキーさんの「「エスニシティ論」は日本で根付くのか」を読み、自分に当てはめて考えてみた。
私の記憶では、エスニシティという概念に初めて触れたのはアメリカの大学に留学してからのことだったと思う。留学前に耳にしたこともあったのかもしれないが、ももさんの指摘通り、高校卒業まで日本で育った私にとっては、そんなことは考える機会も必要もなかったために聞き逃していたのかもしれない。
大学・大学院で教育政策、移民政策を学んだこともあるが、それより、いろいろなバックグラウンドの人と接する環境におかれて、私にとってエスニシティという考えは徐々に身近になものになっていった。多民族で成り立つアメリカ・カナダではエスニシティが自分のアイデンティティの一部であることは自然なことで、いろいろな場面で話題に上る。最近では妊娠時に助産院で渡された用紙に、母親(私)と父親のエスニシティを記入する欄があった。(ちなみに子どもの父親は西アフリカ出身の両親を持つフランス人であり、なんと書くべきか迷った覚えがある。)
エスニシティに関連して、北米に来て初めて触れ、当初しっくりこなかった考えの一つに「エクイティ(equity)」 がある。日本語では公正さ、とでも訳すのだろうか、平等な社会を目指す物差しとして使われる。「人を同じに扱う」こと正義とする「equality(平等)」に対して、エクイティは、簡単に言うと、個人の多様性やエスニシティなどのグループ間のに違いを前提に、時には「平等に扱わない」ことで結果的に社会に根付く不平等をなくすことを目指す。

平等(equality)とエクイティを図に表し、比べたもの(http://www.communityview.ca/より)
エクイティのもとになるのは、私たちの現在は、過去の制度的な差別の結果成り立っており、表面的な差別を禁止するだけでは、不平等ははなくらないという認識である。カナダもアメリカも、今は多様性を重んじる多民族国家だといっても、これは歴史的には最近のこと。そのため、皆を平等に扱うことにこだわるよりも、結果的に今まで排除されてきたグループがきちんと機会を得られるような対策をエクイティは目指す。
例えばアメリカのアファーマティブアクションは、歴史的背景から今も根強く残る人種間の格差を是正することを目標に、進学、雇用などの面で、マイノリティの人々を優遇する諸政策を指す。この政策では、例えば大学が、マイノリティ出身の学生を積極的に受け入れるために、人種・エスニシティなどを理由に異なる入学基準を設けることができる。
カナダでは、雇用に関して、Employment Equityと呼ばれ、歴史的に排除されてきたグループ(女性、非白人(visible minorities)、先住民、障がい者)の雇用、昇進を奨励する政策がある。雇用に限らずとも、私の携わるコミュニティーワークや教育現場でも、多様なバックグラウンドを持つ人達が活躍できるようエクイティを目指す関する取り組みが続いている。
例を挙げると、私の担当する学生の奨学金の中には、優秀な学生であればだれでも応募できるものに加え、理系の女子学生向けや、両親ともに大卒でない学生向けの奨学金などがある。それに対して、男子学生限定の奨学金など、制度的な不平等を助長すると考えられる支援は禁じられている。
ちなみに日本で差別をなくす取り組みというと女性枠を作るなどのクォータ制を聞くが、こちらは私の知る限り一般的なものではない。
留学当初、人を「不平等」に扱うことがフェアだなんて考えに、私は正直納得がいかなかった。大学のディスカッションでも、アファーマティブアクションは白人である自分に対する不当な差別だ、と言い切る男子学生がいたり、実際、アメリカ・カナダの中にもいろんな考えの人がいる。それでも、エクイティの考えを通じてより公平な社会を目指す政策は、おおむね肯定的にとられているように思う。
15年間の北米生活を経た今、「皆を平等に扱うのがフェア」という日本で当たり前だと思っていた私の考えは大きく変わった。エクイティは、多民族国家のマイノリティだけの問題ではなく、性差別など、制度的な不平等を考えるうえで必要な概念だと思っている。
エクイティが日本で受け入れられる日は来るのだろうか。