日本の大学アメフトでの事件から考えること
文・鈴木典子
2018年5月6日の日本大学(日大)と関西学院大学(関学)のアメリカンフットボール定期戦で起こった危険なプレーが、日本のスポーツ界全体に及ぶ大きな問題に発展している。
問題のプレーは、関学の選手がボールを投げた後に日大の選手が背後から猛烈なタックルをし、関学の選手は倒れて全治3週間のケガをしたというものだ。その日大の選手は「(反則を)やるなら(試合に)出してやる」「つぶしてこい(=ケガをさせろ)」と監督から指示されたと発言したが、日大の監督、コーチ、大学は、そのような指示はしておらず戦って来いという意味の発言を選手が誤解したのだという意味の説明に終始した。
選手は記者会見で、高校で始めたアメフトの魅力にとりつかれたものの、大学では厳しい練習環境の中で楽しくなくなり、それどころか、日本代表に選ばれたり、チームに貢献したりするために、指導陣の有形無形のプレッシャーを受けて、常識では考えられない行動をとるに至ったこと、全ては自分の弱さが原因で、自分はもうアメフトをやる資格がないと思っていることなどを語った。それを受けて、負傷した関学の選手は27日に復帰をした試合後のインタビューで、日大の選手がアメフトを辞める必要はなく、いつかグラウンドで正々堂々と試合をしたいと発言。日大の20歳の青年の自分の弱さと責任を認める真摯な態度は好ましく、未熟さより勇気と自省を感じさせた。本心からの謝罪もせず、自分の責任を認めなかった大人たちの会見内容が、なんとも情けなく、恥ずかしい限りだった。
小学生から日本と北米で野球をやってきた息子たちの経験を思いながらこの「事件」を見ると、なぜ日本のアマチュアスポーツは、ここまで選手や指導者を追い詰めるようになってしまったのだろうと、ため息が出る。もちろん、どの国のどのスポーツでも、指導者の横暴やハラスメントは存在する。日本の大学スポーツ改善のために参考にされるというNCAA(全米大学体育協会)の統制下にある大学では、フットボールの有名コーチが絶対的地位を誇っているし、米国女子体操界でのセクハラ放置もあった、カナダのアイスホッケーでも似た話はたくさんある。アマチュア選手は、技術的にも組織的にもより良い位置に上がるためには、指導者の支配下から逃れることはできないのだ。とはいえ、日本では、社会の体制や人々の考え方全体に、追い詰めるような「風土」があり、逃げ場が無いように思う。
「日本一」になること、日本代表に選手を出すチームになることが、学校の利益となり、勝つことが最大の目的となってしまう。チームは、崇拝の対象か服従すべき独裁者かの違いはあるが、監督を君主とした帝国だ。チームや選手の成績イコール監督の力と評価され、ミスは選手の責任(監督を上司と置き換えれば、社会に出ても同じことが…)。コーチも生活がかかっているので監督に文句を言うどころか、言われずとも「忖度」して輪をかけて厳しく指導する…。
選手側で考えると、個人技であっても、学校単位で参加する大会が多いので、学校以外にそのスポーツを続ける道が少なく、選手はそのスポーツを続けたければチームを勝たせなければならない。指導者ににらまれたらチームにも学校にも、ひいてはそのスポーツ界にも居場所が無くなる。続けるなら、学生生活の全てをかけなければならず、心身の能力が及ばない選手はチームを支えることで燃え尽きる。上下関係が厳しく、下級生の間はひたすら下積みなので、やっと自分が上級生になった時には下級生に優しくする余裕はない。
苦しい練習を続けて自分の力とチームの力があがり、試合で勝って日本一になるのはもちろん素晴らしい経験だが、アマチュアスポーツは、楽しいからやっているのではなかったか。
残念ながら、こうした体制と考え方は、体育会部活だけではなく、オーケストラ、コーラスなど音楽系や、かるた、書道などの活動にもみられるようだ。良い大学に入るために、試験でよい成績を取ること、良い大学に入れる学校に入ることが至上目的になっていることとも、通じるものがあるように思う。
日本の子供たちが、純粋にスポーツの楽しさを一生味わい続けることができるには、何を変えればよいのだろう。真摯に自分に向き合い、勇気と自省力を持つことのできる若者に願いを託すのではなく、今までの社会を作ってきた大人の一人として、何ができるだろう。