ホストファミリーの思い出

文・三船純子

「そう、そういう事があったのよ!(Yes, that’s what happened!)」と、白人の中年女性が批判するような声を私に投げかけた。20年ほど前にハワイのパールハーバーのUSS アリゾナ記念館で、第二次世界大戦の日本軍によるパールハーバー襲撃の展示に見入っていた時の出来事だった。そのアメリカ人女性が、日本人である私に「あなたの国の軍隊は、こんなひどい襲撃をしたのよ!」と言いたかったのだろうと気がついたのは、その女性がその場を立ち去った後だった。第二次世界大戦に幼少期を過ごした亡き父は歴史記念館を訪れるのが好きだった。そんな父に付き合い、あまり気が進まないままに記念館を訪れていたのだった。記念館にはアメリカ本土からの観光客らしき人で溢れており、自分達が日本人であることに少し気まずさを感じていた時に起こった出来事だった。

特に戦時を生き抜いた世代のアメリカ人が、パールハーバー襲撃は日本軍の卑劣な抜き打ち攻撃であったとか、広島や長崎への原爆投下は戦争に終止符を打つ為の正当行為であったなどと、日本人の私に臆することなく話すことに衝撃を受けたことは、私がアメリカで最初に感じたカルチャーショックのひとつであった。

パールハーバーを訪れた時からさらに5~6年前、20代だった私は、叔父が住んでいたミシガン州のBattle Creekという人口5万人ほどの町に英語留学をし、叔父の同僚の家にホームステイをした。閑静な住宅街の中あった叔父の同僚の家の庭には、様々なハーブや花木が育ち、品のいいアンティークで溢れていた。その家は、私が子供の頃に大好きだった「大草原の小さな家」を彷彿させる暖かいな雰囲気だった。伯父家族と一緒にディナーに招待されて行ったディナーで、とても居心地が良い家と美味しい手作り料理に魅了され、「こんな家にホームステイできならいいな」と思わず言ったら、ひとり娘は結婚してカナダに移り住んでいたこともあったのかもしれないが、「じゃあ、我が家にいらっしゃい」と、私のホームステイが決まったのだった。日当たりの良いキッチンで、ホストマザーは庭で採れたハーブを使って、パンでも何でも手作りする人だった。

彼らと暮らし始めてしばらくしてから、ホストファザーは、アメリカ軍の陸軍兵士として、沖縄にも行ったことのある退役軍人であることを知った。日本と戦った彼が、日本人の私をホームステイさせてくれていることに、時の流れを感じながら、私は彼の参戦体験に興味を持った。彼は何事もきちんと記録するまめな人で、自分の参戦経験を詳細に記した日記のような参戦記録帳を見せてくれた。そこには彼の部隊が沖縄に上陸し日本軍と戦い、沖縄の住民にも遭遇した様子が詳しく記されていた。

私は学校の課題のペーパーの為に、アメリカに留学している私が目の当たりにした、第二次世界対戦に対するアメリカ人と日本人の理解と意見の違いについてまとめたことがあった。このことをホストファザーに伝えると、退役軍人の集まりがあるので興味があるかと声をかけてくれ、彼と一緒に出かけて行った。ホストファザーは集まっている仲間に、今日は日本からの特別なゲストが一緒なので、日本人の呼び方には気をつけるようにと提言してくれたが、昔の話が熱くなってくると、「Jap(ジャップ)という日本人への蔑称が彼らの口から飛び出していた。会合が開かれた空軍基地記念館には、第二次世界大戦中の米空軍の功績を綴る新聞記事があちこちに飾られており、どの新聞にも「Jap」という文字が大きな見出しにもなってあちこちに使われていた。敵国であった彼らがどのような気持ちで戦争に臨み、その経験をどのように振り返っているのかを、今の私だったらもっと色々と聞き出すことが出来たかもしれないが、残念ながら当時はそんな勇気はなかった。

日本で生まれ育った私は、祖父母や両親から戦時中の食料難などの苦労話を聞き、テレビ番組や本を通して、空襲の恐ろしさや広島や長崎の原爆の被害や被爆者の苦しみを学び、戦争は正当化されない残虐行為であること、日本に対する原爆投下は人種差別もあった殺戮行為であったとや心に刻みつけられて育った。広島や長崎の原爆投下がなければ、あの戦争は終わらなかったと言い切るアメリカ人に、国や立場が違えば史実に対する見方がこんなに違う事を知った時の衝撃は今でも忘れられない。この経験を初めての英語のレポートとして提出した時に、担当の先生がとても褒めてくれてクラスの皆の前で読んでくれたことで、とても救われた。

退役軍人だったホストファザーが、日本人の叔父に職場で始めて会った時、どう感じただろうか。後に叔父は、ホストファザーは伯父に対して最初はとてもよそよそしかったと話してくれた。その後、互いの家族をディナーに招待し合うように交流を深めていったようだが、ホストファザーも色々考えることがあっただろうと思う。その後私を受け入れてくれて、二人は日本も訪れた。一年近く彼らの家に滞在した私から、ホームステイ料を一切受け取ろうとしなかったのは、日本人と戦った彼の中に、自責の念の様なものもあったのだろうか。

二人との交流はずっと続き、彼らに会う度に北米に来たばかりだった頃の自分を思い出した。二人は、自分の北米での原点に戻れるような特別な存在だった。そのホストファザーは4年前に87歳で、ホストマザーもつい数ヶ月前に92歳で亡くなった。私の帰りが遅くなると、怖い顔をしながら待っていてくれたホストファザーや、色々と悩んでいた私に的確なアドバイスをしてくれたホストマザーはもういない。いくつかのカルチャーショックを乗り越えて、北米で生活をするようになった私に、様々な学びの機会を与えてくれた二人への感謝の気持ちを、いつまでも心に留めておきたい。

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