取り払われたカナダ初代首相(John A Macdonald)のブロンズ像

文・サンダース宮松敬子

ビクトリア市の唯一の新聞Times Colonistの8月9日付け一面には、「Macdonald stature to be removed from city hall 」と大きな見出しが躍っていた。「ああ、やはりそう決定したか・・・」と私は深い感銘を受けながら記事に見入った。

John A Macdonald(1815‐1891)という人物は、カナダが建国された151年前に初代首相として6年間(1867‐1873)、また返り咲いてから13年間(1878‐1891)の長きに渡り首相として政界に君臨した人である。

カナダが国として確立するまでの活躍もさることながら、長いキャリアの間の大きな業績の一つは、この広大な国を貫く大陸横断鉄道(CPR)を完成させことである。

これには安い労働賃金で働かされた中国人や日本人移民たちが酷使された悲史があったり、また政界と業者との金銭的な癒着、最終的には大きな赤字を抱えCPRが破産寸前の憂き目にあったり等の負の部分が取り沙汰された。しかしこれによって、国が東から西までやっと一つなれたと言われている。

彼はこの鉄道完成によって、1886年に初めてオタワからBC州迄の旅をして国をつぶさに見ることが出来たのである。

さてそれでは1982年に設置されたビクトリア市庁舎前のブロンズ立像が、何故最近になって撤去されたのであろうか。

それは当地を始め、西海岸に多い先住民たちの根強い反感があったからだ。Macdonaldが初代首相として彼らに行った一番の汚点は、先住民の子供たちを親元から離し寄宿舎に定住させ、彼らの歴史や言語をないがしろにしたことである。

Residential School Systemと呼ばれたこの法律は、多民族国家の現在では考えられないことだが、英語によって白人の価値観を押し付ける教育を施し、中には白人の教師たちの性暴力の対象になった子供が多々あった事も明るみに出ている。

撤去された立像後に置かれたサインにはこう書かれている。

「ビクトリア市は、先住民であるLekwungen、Songhee、 Esquimalt Nations族の土地であった場所に立地していることから、2017年に彼らとの和解と真実を追及する模索を開始した。

ビクトリア市民として、和解プログラムが解決するまでの間、初代首相であったJohn A Macdonaldの立像を市庁舎の入り口から撤去することに決定した。ビクトリア市、各種のコミュニティ、そして国などの間で、彼が実行した非常に複雑な負の出来事や、特にリーダーとして先住民に行った暴力的行為に関して話し合いが持たれることを望む。

立像は市庁舎内の安全な場所に保管してある。和解プログラムの成り行きは市民にその都度報告するが、解決の道を探るまでこれが正しいやり方であると確信する」

当然ながらビクトリア市民の間では大きな論争が起こっている。「過去は変えられないし、せっかちな決定を下す前にもっと市民を巻き込んでディベイトをすべき。功績も多く残している点も忘れてはならない」や「不快に思う人がいる限り人目に触れる場所に立像などを置くべきではない。市庁舎は正しい判断をした」など様々である。

撤去されてからわずか数日だが、すでにサインには悪戯書きがされた。だが市庁舎は予測していた事態のため、すぐ用意していた同じサインに置き換えた。イタチごっこがこれからも続くのか定かでないが、今後の動きが注目される。

 

 

 

 

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