サーロー節子さんの言葉を心に留めて
文・空野優子
私たちGroup of 8による初の公開イベントであるサーロー節子さんをお招きしての講演会・ドキュメンタリー上映会は8月の3連休の中日の開催だったにもかかわらず、約200名が参加者し成功裏に終わった。
私が節子さんに初めてお会いしたのは、実は今回のイベントがきっかけである。広島出身の被爆者であり、核廃絶運動の世界的第一人者であるサーロー節子さんのお名前は以前から耳にしていたが、今回の上映会・講演会がきっかけで直接お話をうかがう機会に恵まれた。
節子さんは核廃絶運動の活動家として知られるが、トロントではソーシャルワーカー(社会福祉士)としても長年活躍されてきた。またトロント在住の日本人向けに日本語で生活をサポートする現在のジャパニーズ・ソーシャル・サービスの前身となる組織を立ち上げるなど、日系コミュニティにも大きく貢献されてきた。
もともとソーシャルワーカーになることを志したのも、戦後の広島で孤児となった子どもたちの支援をしていた大人の行動に感銘を受けたことがきっかけだとのことで、節子さんのキャリアは戦争体験なしには語れない。
そんな節子さんとお話しして、まず印象に残ったのは、86歳とは思えない、パワフルでユーモアに満ちた、とても包容力のある人柄である。
ドキュメンタリーの中にも出てくるが、節子さんは戦後アメリカの大学へ留学し、その後カナダ人のジム・サーロー氏と結婚後、トロントへ移住された。留学一年目、アメリカの核実験に対してメディアにコメントを求められ、率直にやめるべきだとの返答をしたところ、「日本へ帰れ」など激しい非難を受けたという。そのような経験を経ても、節子さんは、以後60年にわたって北米内外で被爆体験を英語で語り、核兵器廃絶の運動を引っ張ってきた。
英語で被爆体験を伝えるということは、戦争・原爆投下に対して様々な記憶や意見を持っている人に語りかけ、また耳を傾けるということでもある。例えば、ドキュメンタリーの中で、日本軍によりアジアの人々が殺されたことについての尋ねられる場面がある。そこで節子さんは、質問者に正面から向き合い、日本は原爆の被害にあったけれど、また加害者でもあったことを認め、命の尊さと戦争の残虐さについて語る場面が出てくる。実際、先の講演会でも、質疑応答の中で、原爆が投下されるまで降伏しなかった日本を非難し、原爆の被害はあたかも自業自得であるかのような発言が出された。主催者の一人として私はとても残念な思いであったが、当の節子さんは思ったほど気に留めているようでもなかった。きっと似たような経験を今まで数多くされてきたのだろう。
私も節子さんと同様に、日本で育ち、アメリカへの大学留学を経て、カナダに移住したのだが、節子さんの人生に自分を重ねてみることは到底できない。私が留学した2000年代のアメリカは、一般に多様性がとても重んじられ、反差別の意識は強く、私自身日本人だからといって嫌な思いをしたことはほとんどない。また、日本にメールも電話も簡単にでき、周りに日本人もいた。そんな環境でも最初の一年はなかなか大変だったので、節子さんの半世紀以上前の留学先での孤独、その後の苦労は想像することもできない。
にもかかわらず、戦争・被爆体験に始まりあらゆる経験をしながら、信念に基づいて発言されてきたからこそ、節子さんの言葉には力があるのだろう。先の講演会にしても、翌日8月6日のヒロシマ・ナガサキデー追悼記念での演説にしても、また、一対一での対話でも、節子さんの力強さ、優しさは、聞き手を無関心のままにさせない。
サーロー節子さんのメッセージを心に留め、彼女の生きる姿勢を身習い、私もこれから自分にできることを考え、行動していきたい。