朝の食卓で「鮭の産卵場所」について考える
文・嘉納もも・ポドルスキー
トロントでは現在、The Last Ship というミュージカルが上映されている。かつてThe Police というバンドでリード・ボーカリストを務めていたスティングが作詞作曲を担当したことで話題を集めた作品。トロントでの公演は全て、スティング自らが主演するのも売り物になっている。
オープニングに先駆けてトロントスター紙に大々的なプロモーション記事が掲載された。2月13日付のその記事の中で、スティングはThe Last Ship の舞台となっている自分の出身地、イギリス北東部のウォールセンド(*について語り、町の主要産業である造船業の盛衰が住民たちの生活をいかに翻弄したかに言及している。スティング自身はそんな町や境遇から逃げ出してアーティストとしての道を歩むことを選んだわけだが、人生の後半に差し掛かって生まれ故郷に対する想いと向き合わざるを得なくなり、このミュージカルを創るに至った、というニュアンスのことを述べている。
その際、彼が発した言葉の中で私が特に興味を引かれたものを以下に抜粋する。
“You know, a salmon always heads back to its spawning ground to figure himself out. Part of my psychological journey is to accept where I come from, and honour where I come from and give thanks. Because I’m proud of where I come from, even though I exiled myself.”
「鮭は必ず(自分が生まれた)産卵場所に戻って己の何たるかを知る」という言い回しが面白かったのもあるが、スティングが繰り返して使っている ”where I come from” にも考えさせられた。訳を付けるとすれば「出身地」が一般的だが、場所だけではなく、「生活の背景」や「生い立ち」などといった意味をも含ませたい気がする。文字通り、「来し方」とすれば良いのかも知れない。とにかく生まれや育ちといった自分の歴史の根源的な部分を否定し続けている限り、人間は心理的な自己実現を全うすることが出来ない、とスティングが言ったところに共鳴したのである。
朝の食卓で新聞を読むのは日課だが、メモを取るほどに心を動かされるのは珍しい。
Group of 8 のエッセイで繰り返し綴って来ているように、我が家では、息子たちも私自身も物心ついた時から二つ以上の国や文化の間を行き来しながら生きて来た経歴を持つ。我々のような人間にとって、スティングの言うところの “where I come from” は、場所的にも文化的にも簡単に特定できないのが特徴なのだが、だからといってそれを追い求めて彷徨い続ける運命であるとは限らない。
要は我々にとって「産卵場所」は一つではない、と認めてしまえば良いのであるが、その境地に達するまで時間がかかるのだ。
15才までフランスで過ごし、日本に「戻って来た」私は、なるべく早く日本の学校文化に溶け込むためにフランスの話はしないようにした。大学に行ってからも二度と海外生活はしたくないし、結婚相手は日本人しか考えられない、と断言していた。
日本人の母親とカナダ人の父親を持つ長男は、5年の滞在を終えて14才で日本からカナダに生活の拠点を移したとたん、日本という国はもはや自分とは何の関係もないところだ、と言い張った。次男は逆にカナダに帰ってきても日本とのつながりを頑なに保ち、自分の生まれた国での生活に馴染むことを拒んだ。そして将来は日本で就職して、日本で生活するのをずっと夢見ていた。
三人三様だが、私たちは「産卵場所の多様性」に抵抗し、簡略化することに力を注いでいたのである。文脈は異なるが、スティングが故郷を捨てて「流浪した」と言っている様に、私たちも自分の重要な歴史の一部分を切り捨てて彷徨っていたのである。
だがそのような抵抗を永久に持続するのは無理であり、また無益であることも悟る時が来る。
私は結局、フランスで育った経験が自分の強みであると受け入れたことで気が楽になったし、その後の人生は(結婚相手も含めて)見事に海外尽くしである。長男は行きがかり上とはいえ日本の大学院に進学し、その経験が日本の企業への就職に繋がった。今ではすっかりバイリンガル営業マンの道を歩んでいることに矛盾を感じていないようである。次男は紆余曲折を経たものの、現在は日本とのつながりを趣味の世界に留め、実生活の拠点も将来の人生設計もカナダ、ということで収まりがついている。
自分の歴史を部分的に削除したり、否定したりすることは、自己理解を妨げる。押し隠そうとする部分が自分のアイデンティティ形成の根源に関わるものであればあるほど、問題は深刻になる。逆に、スティングの言う通り「自分の来し方を受け入れ、敬意を払い、感謝の気持ちを持つ」ことで解放されるのだと早々に気付く方が良い。
「鮭の産卵場所」をキーワードに、そのようなことを改めて考えさせてくれたスティングに感謝しているが、お礼にミュージカルを観に行くかどうかはまだ決めかねている。The Last Ship は3月24日までPrincess of Wales Theatreで上映されている、と宣伝することでとりあえず許してもらおう。