「平成」最後の月(4月)にカナダから:カナダBC州ビクトリアにて知った新元号

文・サンダース宮松敬子

4月に入ってからは、日本からのメルマガや友人からのメールに「平成最後の月」という言葉が躍っている。

天皇が変わるたびに設けられる日本特有の元号については、4月1日からの半月間多くのメディアがうん蓄を傾け、有識者の談話と共にあらゆる情報が飛びかっている。当然と言えば当然だが、はっきり言って外国住まいには、今一つ「ピンと来ない感」があることは否めない。まだまだこれからも想像に絶する程の関連ニュースが流されることだろう。

日進月歩で発達しているテクノロジーのお陰で、新元号発表の瞬間は世界中でそのニュースを見ることが出来、もちろんカナダも例外ではなかった。奇しくもその日私は日本の友人に夕食を招待されていたことから、時間を併せ彼女のコンピューターで成り行きを見守りながら、「平成」が決まった31年前の事に思いを馳せていた。当時私は日本経済新聞トロント支局に勤めていたことから、決定した瞬間に本社が世界各国の支局に流したFAXによって知ったのである。

もちろん電話によって情報を素早くキャッチすることは可能であった。だが一般の人々が世界を駆け巡るニュースを瞬時に得られる時代ではなかった為、トロント在住の日本人からの問い合わせが殺到し、支局は対応に追われたのが懐かしく思い出された。

立ち消えの女性天皇論

北米や南米大陸の国々では、カナダも含め、いわゆる王室/皇室と言うものを持たない。だがカナダは連邦立憲君主制国家で英連邦王国の一つである。今は多民族社会で「二言語(英仏)多文化主義」をモットーとするものの、人口の70%近くはヨーロッパ系白人であるため、国民の多くは英王室関連のニュースに一喜一憂する。

それが君主を持たないアメリカ人から見ると羨ましいと思う向きもあるようだが、代わって注目の的になるのは大統領一家で、過去においてはケネディ家がその最たるものであった。

国の象徴である王室・皇室が長い歴史を持ち、良くも悪くも国民の注目の的になるのは英国も日本も同じである。しかし両国の決定的な違いは、英国の場合、次期君主は男女に関係なく第一子の最初の子供であることだ。

まだ記憶に新しいが、日本も秋篠宮家に悠仁親王が誕生するまでは女性天皇論が浮上した。だが直系ではないものの男子が生まれたことで、議論はくすぶりながらも今は立消えになった感がある。今後彼が成人して子を成すまでにはまだ30~40年は掛かるだろうことを予測すれば、切迫した問題ではないわけで関係者はさぞやホッとした事だろう。

天皇制の存在

歴史を見れば明らかなように、明治天皇の側室の子であった大正天皇に男子(昭和天皇)が生まれ、また次にも男子(平成天皇)が生まれたこともあって、それまで当然の如くまかり通っていた側室制度が自然消滅した。

近代社会にそぐわないことで変化した制度はそればかりではなく、美智子皇后が民間から嫁したこと、乳母を雇わずに自ら現皇太子を養育したこと、続いて紀子妃、雅子妃がそれに続き、徐々にではあっても皇室のあり方は時代と共に変化している。加えて近年は皇族が通う学校も今までは学習院と決まっていたことも、国際基督教大学、お茶の水と言った学校が選ばれていることも周知の通りである。

正直な気持ちを明かせば、私は「天皇制の存在」というものには非常に複雑な思いがあり、お正月に皇居に行きただニコニコと『天皇バンザイ』を口にすることにも長い間何処か抵抗があった。

それは何に原点を発するかと言えば、戦前全く「普通の市民」の一人であった父が、「天皇陛下」の名のもとに終戦を迎える僅か1年前(昭和19年‐1944年)に赤紙1枚で招集され、フィリッピンで戦死した(と言われているが、実際は何処か分からない)からだ。父はすでに36歳で子供が三人おり、自身の父母も養う一家の大黒柱であったが、負け戦が続く日本はもう元気な男子なら誰でも戦場に駆り出したのである。

その後国から家族の元に送られたのは、桐の箱に入った何処で拾って来たかも分からない石ころ一つで、出生時一歳だった私には父の記憶は一切なく永遠の思慕で終わっている。

だからと言って、平成天皇に先の戦争の責任があるとは思えないし、戦犯として処刑された人々が眠る靖国神社に決して詣でないことも当然の事と思う。またこの何年かは美智子皇后と共に東南アジアの旧戦場地を歴訪し、言ってみれば昭和天皇の戦争責任の尻ぬぐいをしているのは見上げた事と思う。

加えてこれも非常に私的な体験なのだが、2009年に両陛下がトロントを訪問された際に、私は実母がシニアになってから移住したトロントでの生活体験を書いた「カナダ生き生き老い暮らし」(集英社)を、団長だった福田元総理に託して両陛下にお渡し下さるようお願いした。中に記した母の戦争体験記を是非ともお読み頂きたかったからである。戻されることを覚悟していたが、2,3日してお二人がバンクーバーに到着された時、美智子妃の侍女と言う方から「確かに受け取り、美智子妃にお渡ししました」との電話を頂いた。一市民の戦争への思いが伝わったことで、私は心の中に「許」という思いがスーッとよぎったのを覚えている。

時代に沿った流れ

新元号「令和」はあと半月弱で始まる。第二次世界大戦後に生まれた人口が8割を超えても天皇制、天皇家は日本にしっかりと根付いている。今後も存続し続けるのであろうことを考える時フツフツと湧く思いは、時代と共にもっとそのあり様は変革していくべきであると強く感じるのだ。

側室制度の廃止が当たり前なのと並行して、天皇家に嫁ぐ女性たちが「男子を産む器械」に化すのではなく、英国の様に男女に関係なく第一子が次代を継ぐことが当然と国民が思えるようになって欲しいと願うのである。

昨今は美智子妃の結婚後、旧皇族からの大変ないじめがあった事が明かされているが、妃にとってとてもラッキーだったのは、第一子としてまず皇太子が産まれたことであろう。それがなかった雅子妃が病気になられたのは当然であると推察する。

今後は唯一無二の雅子皇后になられるわけで、召される洋服も一昔前のテーラード襟の地方公務員の制服もどきではなく、もっと個性豊かなスタイルであって欲しいと願う。日本には世界で活躍する素晴らしいいデザイナーが沢山いるのだから。

最後になるが「令和」礼賛に水を差すわけではないが、日本語の余り分からない人に「レイってどんな字?」と聞かれた時、「命令の令」と言うのはとっても嫌と言う日本語教師がいること、また『万葉集』の「梅花宴(梅の花を見る宴会)」で詠まれた32首の歌の序文から採用されたと言うが、「梅は中国を象徴する花ではないのか」との質問も受けると言う。

桜でなかったのは惜しまれる。

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