「誰が日本人になれるのか」

文・嘉納もも・ポドルスキー

北米の中でも極めて多様な文化や民族の集合体であるトロントに住んで30年以上も経つと、日本のニュース・サイトで情報を追っていて未だに「純粋な」日本人であるのか、そうでないのかが大きな争点となるのに驚かされる。

過去一年間に活躍した「ハーフ」の日本人アスリートを巡る論争を例に取ってみよう。

プロ・テニスで日本人初のワールド・ランキング1位に輝いた大坂なおみ選手、プロ・バスケットボールの最高峰リーグNBAで日本人初のドラフト一巡目9位に指名された八村塁選手、そして陸上短距離100メートル走で日本人初の9秒台記録を叩き出したサニブラウン・アブデル・ハキーム選手。三人とも日本生まれで日本人の母親を持つ点が共通しており、父親はそれぞれアメリカ人、ベナン人、ガーナ人でありながらも日本代表として国際大会に出場することを選んだアスリートたちである。彼女・彼らが成し遂げたことは世界のトップレベルにおける見事な功績であり、日本人として大いに誇れるニュースであった。

ところが日本国内のネット反応を見ると、三人の偉業にケチをつける輩が少なからずいることに気付く。要は、いずれも片方の親が日本人ではないから身体能力に恵まれているのであって、「本当の日本人」が達成したこととは思えない、と言いたいらしい。

確かに大坂選手、八村選手、サニブラウン選手たちは全員、一般の日本人にはなかなか見られない体格をしており、日本人ではない方の親からもたらされた遺伝子が作用していることは事実だろう。だが身体能力だけで世界のトップレベルにのし上がることが出来るわけではない。本人の才能、そして数知れぬ苦労や努力の積み重ねがあったからこそ栄光を勝ち取ったのだ。ちょっと考えれば誰にでも分かることだろう。

ただ、大阪選手たちに向けられた批判の問題点はそこではなく、異なる人種背景を持った親から生まれた子どもが日本人として認められない、というところにあると私は思っている。ウクライナとブリティッシュ系のルーツを持つ夫と子どもをもうけた私にとって、これは他人事ではないし、この記事を読んでくださっている方々の一部にも、身近なこととして受け止められるのではないかと推測する。

日本人としての「資格」、あるいは「条件」とは何であろうか。

日本国籍の両親を持ち、日本で生まれ、日本で育った子どもであれば、日本の歴史や文化の知識が深いかどうかはあまり問われない。正しい日本語が操れるかどうかさえも怪しいケースを、私は大学教師として目の当たりにして来ている。

だが同じように日本人の親から日本で生まれていても、海外で育った子どもは、帰国後にいくら日本のことを勉強しても「変わった奴」と見なされてしまう場合がある。日本で生まれ育って、日本語が母語であっても、片方の親が日本人でないためによそ者扱いを受けていじめられる子がいる。日本以外の国から移住してきた人は、いくら長期間日本に滞在した後に帰化しても、いくら日本文化に精通していて日本語を完璧に話せても、「本当の」日本人として認められる保障はない。

親の国籍、自分の出生地、育った国、言語・文化的知識等、どの条件がどの優先順位になるのかはなかなか予想しがたく、状況によって、「認定」する人によって、変わるのである。

通常、エスニック集団の定義を議論する際にも出自や生活体験、文化の共有などの条件が挙げられる。ただ、いわゆる「先進国」であるフランス、ドイツ、大英帝国などの西ヨーロッパ諸国、そしてカナダやアメリカはそれぞれ立場は違っても植民地主義の歴史を経ているだけに、多様性を受け入れる姿勢が国民の間で共有されている。よって21世紀現在ではあまり限定的な(例えば)「フランス人はこうあるべき」といった定義付けが、少なくとも表向きには許されない空気が漂っている。

折に触れて移民に対する不満が募ったり、難民の受け入れに対する拒否反応が起こったりするだろう。だが歴史の流れは覆されないことを、国事を司るトップの人間はもちろん、ほとんどの良識ある国民が理解している。ましてやサッカーのフランス代表チームの過半数が旧植民地のカメルーンやグアドループなどにルーツを持っていたり、カナダの五輪代表選手がインド人や中国人の両親から生まれていたりしても誰もあからさまには異論を唱えない。

日本国内で「自分たちこそ(だけ)が日本人である」と信じている人たちも、いつかはそのような境地に到達するのだろうか。それとも、抗いがたい外国人労働力の流入と、その結果もたらされる多様性をいつまでもマージナルな事象として棚上げしておこうとするのだろうか。新しい令和の時代を迎え、また56年ぶりに東京で五輪を主催するにあたって、日本の政治家、思想家、教育家、日本の国民全員がどのような社会を目指して行きたいのか、考えることを迫られている気がするのである。

補足:
1)「ハーフ」という言葉を私自身、無反省に使っているわけではない。色々な歴史的背景やステレオタイプが込められていることはもちろん把握しているし、蔑称と捉えて抵抗を覚える人がいることも理解できる。ただ我が家では当事者である息子たちも、私も、「片方の親が日本人で、もう片方の親が日本人ではない子ども」の短縮形として語彙に取り入れていることを記しておく。

2)大坂選手は人生の大半をアメリカで過ごしているが、八村選手もサニブラウン選手も大学生になってアメリカに渡るまで日本で生活し、日本でそれぞれの競技に従事していた。

3)大坂選手たち以前にも、ハンマー投げで五輪金メダルを獲った室伏広治氏や、メジャー・リーグ投手のダルビッシュ有選手など、世界レベルで活躍を見せた「ハーフ」のアスリートはいた。だが室伏氏の場合は母親がハンガリー系ルーマニア人、ダルビッシュ選手の場合は父親がイラン人であったためか、大坂選手たちほどには外国人のルーツを持っていることが問題視されていなかったと記憶している。日本人の人種差別は、肌の色や親の出身国などに基づいて幾つかに階級化されている、ということが浮き彫りになっているのではないだ
ろうか。

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