矢嶋楫子(Yajima Kajiko)の「平和メッセージ」との出会い
文・ケートリン・グリフィス
送り主の名もない小包が届いた。開けてみると古いスクラップ・ブックと本が入っていた。同封のメッセージから遠縁の親戚からであることが分かった。
そのメッセージは短く「興味あるだろうと思い、あなたの父の祖母であるエラ・モンゴメリ・グリフィスのスクラップ・ブックと本を送ります。」とだけあった。この日まで彼女の名前すら知らなかった私にはとても不思議な贈り物であった、そして確かに興味を持った。
スクラップ・ブックは、ほとんど新聞や雑誌からの切れ抜きで構成されていて、所々に彼女の自筆でメモや教訓(と思われる)的なものが書き記してある。年代は1919年から1942年まで。私にとっての曾祖母であるエラおばあさんの住まいはワシントン州のシアトルで、彼女はPTA、女性ネットワークまた教会活動に深くかかわっていたことがこのスクラップ・ブックから推定できた。私の祖母の結婚を記念した新聞記事の切り抜き、父の生まれた時の写真、祖父への追悼の新聞記事など、このスクラップ・ブックで家族の歴史に触れることもできた。
そして、このグループ・オブ・エイトで紹介したくなる興味深いものもあった。矢嶋楫子の「平和メッセージ」のパンフレットである。表紙に「January 1922」とエラおばあさんの字で日付のメモがあるので、矢嶋さんがワシントン会議に訪問した時の講演会などで配られたパンフレットではないかと思う。
このパンフレットをみるまで矢嶋さんのことも彼女の功績もしらなかった。ウィキペディア(日本語と英語版)から彼女は平和運動だけでなく、婦人運動、女子教育、風俗改善、婦人参政権運動に尽力した方だと知った。調べていけばいくほど彼女の人生と活動への関心は深まるのだが、ここではエラおばあさんのパンフレットにまつわる、ワシントンDCで行われた軍縮会議開催時期の1921年11月から1922年2月に焦点をあて、推測も含め紹介したいと思う。
1921年11月、平和を目指し軍縮会議がワシントンDCで開催された。参加国はアメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリアであった。矢嶋さんはこの会議の正式なメンバーではなかったが、平和のメッセージを伝えるため彼女は自費でアメリカへ渡った。89歳であり、これが彼女の3度目で最後のアメリカへの渡航でもあった。
軍縮会議開始とともに、彼女は一万人の日本人女性から集めた平和念願署名を米大統領 ハーディングへ直接渡したことで話題となり、多数の新聞社がアメリカでの彼女の行動を報告していた。彼女はアメリカ滞在期間の11月から翌年1月まで、様々な州の主に女性の集会で平和を願うスピーチを行った。エラおばあさんが住んでいたシアトルへも訪れており、2日にわたって講演会があったことが当時の新聞からわかった (注1)。
1921年12月14日のシアトル・スター新聞に、その夜8時から矢嶋さんがUniversity Christian Churchでスピーチをするとの記事があり、16日の同新には前日Seattle Club Womanで行われた矢嶋さんのスピーチの報告記事がある。16日の記事では、矢嶋さんが大統領へ署名を渡したことと、彼女の平和を願うメッセージに触れ、そしてアシスタントとして守屋東(もりや あずま)さんと通訳のヘンリー・タッピング夫人がいたことが述べられている (注2)。また、タッピング夫人は夫と一緒に日本でミッショナリー活動をしたことがある、とも書かれている(注3)。
エラおばあさんも新聞を読んで彼女のことに興味をもち、シアトルの講演へ赴いたのだろうか。しかし、エラおばあさんのスクラップ・ブックにあるのはこのパンフレットだけで、当時の矢嶋さんを取り上げた新聞記事は貼られていない。憶測でしかないが、エラおばあさんは15日のSeattle Club Womanの方に行ったと思う。問題は1921年12月に行われた講演なのに、エラおばあさんは何故パンフレットの上に「January 1922」と記入したのか。そのミステリーを考えるのも楽しい。ちなみに他の新聞で、1月に矢嶋さんが日本へ帰るための船に乗ったとある。矢嶋さんは1月にまたシアトルに立ち寄ったのか?もしやエラおばあさんはこのパンフレットをスクラップ・ブックに貼るころ、正確な日付を忘れてしまっていたのか?
このスクラップ・ブックのおかげで、懸命に生き、女性運動、平和運動で活躍した矢嶋さんに巡り会えたことは、私にとって大きな意味を持つ。エラおばあさんは矢嶋さんのその後の活動も追っていたようで、そのパンフレットには更にペンで「1925年の春、たくさん愛されながら他界」と記してある。
矢嶋さんの平和メッセージに感銘を受けた人々はたくさんいたのだと思う。その一人が私のひいおばあさんであったことがなにより嬉しく思えた。
また日本へ行けるようになったときは熊本県にある彼女と彼女の姉妹の資料館(「四賢婦人記念館」)を訪れるという旅目標もできた。
注1)Library of Congressのウェブサイトから当時の新聞記事が検索できるので興味ある方は調べてください。https://www.loc.gov/
年代を設定し「Kaji Yajima」か「Yajima」でサーチをすると出てきます。
シアトル・スターの記事はこちら:
https://chroniclingamerica.loc.gov/lccn/sn87093407/1921-12-14/ed-1/seq-5/
https://chroniclingamerica.loc.gov/lccn/sn87093407/1921-12-16/ed-1/seq-11/
注2) 女性運動、禁酒運動、児童保護施設事業などに尽力していた守屋東。守屋東著で矢嶋楫子の紙芝居があることがわかった。実物を是非みてみたい。
注3) 通訳のタッピング夫人は当時の他の新聞でも紹介されており(つねにMrs. Henry Toppingとしてだが)「通訳者」、「矢嶋さんの友人で通訳者」、「日本から一緒に来た」、「日本に住んでいたこともあるが今はシアトルに住んでいる」などと紹介されている。このタッピング夫人も気になり調べてみたところ、タッピング夫妻もまた使命感をもった生き方をした人たちだとわかった。タッピング家族についてはまたの記事に委ねることにする。