ジェネヴィーヴ・タッピングとの出会い
文・ケートリン・グリフィス
前回の記事で、エラおばあさんのスクラップ・ブックにあった矢嶋楫子さんの1921-1922年 のアメリカ訪問時に配布された(と思われる)「平和メッセージ」のパンフレットに基づいて書いた。今回はその時に矢嶋さんの通訳として共に行動していたヘンリー・タッピング夫人(Mrs. Henry Topping)について報告をしたい。(注1)
矢嶋さんの1921年アメリカ訪問時の記事を検索していた時、彼女の「通訳」や「友であり通訳者」として紹介されていたタッピング夫人に興味を抱いたので、彼女の名も当時の新聞で検索してみた。すると矢嶋さんの通訳者として、写真付きの紹介記事インタビューがあった。
この記事と見出しを簡単に訳してみた:
『彼女が訳す、ジャップが話す』(注:ここで使われているジャップ 「Jap」は単にJapaneseの短縮形)ヘンリー・タッピング夫人
「シンプルな小旅行にちょっとの通訳で家に戻ってこれるって思っていたんだけどね」ワシントン州シアトル在住のタッピング夫人。日本で25年間幼稚園教育に携わってきたタッピング夫人。マダム・ヤジマとその秘書がワシントンへ向かう途中シアトルに立ち寄った際、彼女に通訳を頼んだ。「でもこうしてスピーチ・ツアーに巻き込まれてしまって・・・」と笑って話す。
教会やYWCA、多くの女性団体がこの90歳の日本人女性をスピーカーとして招いている。母国語しか話せないためタッピング夫人が通訳としてステージに立つ。
日本語に関しては:「私は25年間日本で過ごした」とタッピング夫人は言う「でもー!」絶望的に首を振りながら「私は言い回しなどを理解するのに今でも苦労しています。アメリカ人が日本語を獲得するなど、ほとんど不可能だと思います。」
――記事終。(注2)
25年間も日本で過ごした彼女のことがますます気になり調べてみた。ここでネットから拾いあげた情報から自分なりのタッピング夫人像を紹介したいと思う。
タッピング夫人の名はジェネヴィーヴ・ファヴィル(Genevieve Faville)。生まれは1863年10月21日と分かったが家族構成は分からない。しかしウィスコンシン州で育ち、大学へも行き、幼稚園教師としての教育も受け、また音楽を学ぶためドイツへも留学したのだから、勉強家であるだけでなくそれなりに金銭的に余裕のある家庭だったのだろう。
結婚は1888年、言うまでもないが、夫の名はヘンリー・タッピング。その翌年に娘が誕生するが、夫婦そろって神学校に入学している。卒業後は夫婦でべネディクト大学で聖書、音楽を教えていた。
夫のヘンリーが宣教師として任命され東京中学院に着任したのは1895年。夫がキリスト教と英語を教えているころ、ジェネヴィーヴは東京築地居留地にある自宅を幼稚園として開放し、また保母養成所(当時Tokyo Kindergarten Teachers Training School)も開設した。宣教師として与えられた仕事をこなす夫の傍らで彼女は自分ができることを見つけ、そして行動に移した。言葉の壁を乗り越え、文化の違いも把握しつつ、信じた道を切り開いていったジェネヴィーヴは相当の努力家でそして夫のサポートと深い信頼があったのだろう。
1899年に息子ウィラードが産まれる(姉のヘレンと10歳ちがい) 。
1907年にヘンリーは宣教師として任命され岩手県の盛岡へ。家族も同行し、ジェネヴィーヴは盛岡でも幼稚園事業に精を傾けた。「盛岡幼稚園」は彼女が自宅を開放したことから始り、1909年に県から正式に認可され盛岡での幼稚園認定第一号となった。
タッピング夫妻は盛岡に12年間滞在した。その間娘のヘレンはアメリカの大学に行くが、夏休みなどは盛岡へ戻り地域の学校で英語を教えたりしていたそうだ。そして、息子のウィラードも成長し姉同様大学はアメリカで、夏休みは日本で、という生活を過ごしていたそうだ。
さて盛岡では宮沢賢治とも交流があったらしい。盛岡城跡にある岩手公園には宮沢賢治がタッピング家族へ捧げた詩碑がある。(注3)
盛岡では有名な詩碑らしく、当時の盛岡ではタッピング家族の存在が大きいものだったのだろうと思う。1911年のタッピング夫人と盛岡幼稚園卒業生の写真も見つけた。ちなみに娘のヘレンは1916年に神戸のYWCA(神戸女子青年会)の初代総幹事を任されている。
夫婦は1919年にアメリカへ帰国した。矢嶋さんの通訳として同行した1921年にはシアトルに住んでいたがその前はオハイオ州やニューヨークにも住んでいる。一定の場所にいたわけではないようだ。新聞の記事からタッピング夫人はアメリカ滞在期間中、幼稚園関連のパレードや講習会などに参加していることがわかった。(注4)
今のところエラおばあさんのスクラップ・ブックに直接タッピング夫人につながるものはないが、シアトルの女性集会、PTA活動、教会活動に興味を持っていたエラおばあさんがタッピング夫人と同じ講習会に参加したことは想像できる。
さて、タッピング夫妻は1922年に日本へ渡り横浜で暮らしはじめる。ヘンリーは関東学院で教えていたが、1927年に病気を理由に引退。しかしその後も夫妻は娘ヘレンの影響で賀川豊彦(神戸市出身で大正・昭和期のキリスト教社会運動家)の活動に貢献し、彼の教えを述べた英語雑誌の編集・発行(“Friends of Jesus” 、“Kagawa Calendar”)を手掛けたり、その他にも文章作成、翻訳、また金銭的な援助をし、賀川氏から「天使たち」と呼ばれていたそうだ。(注5)
余談だが賀川豊彦の名は、これらの英語雑誌によりキリスト教における博愛の精神を実践した「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高い。
エラおばあさんのスクラップ・ブックの中に沢山切り抜かれた詩があるが、ほとんどが作者不明。でも一つに「Kagawa」と記したものがあった。最初から日本人?と思っていたがタッピング夫人の経歴を調べていくにつれ、これは賀川豊彦だと確信し、確認できた。(注6)
タッピング夫妻がシアトル在中に、教会もしくは女性集会でエラおばあさんはタッピング夫人に出会い、矢嶋さんの講演会へ行き、その後もタッピング夫人の影響で賀川氏のことも知ったのでは?とまたまた私は妄想を膨らませている。
矢嶋さんの平和メッセージもむなしく、1930年後半には世界は戦争へと走ってしまった。アメリカと日本の関係が悪化するにつれアメリカ人として日本に居づらくなった時代でもタッピング夫妻は日本に留まった。このころの自宅は世田谷だったらしい。(注7)
1942年に夫ヘンリーは他界する。その後も夫人は日本に滞在し、戦後の1946年にタッピング夫人は社会福祉事業に功績があったということで宮中へ招かれ昭和天皇と拝謁した、とアメリカの新聞が取り上げている。(注8) その後アメリカにも渡ったようだが、最後は日本で息を引き取った。1953年7月である。世田谷の松沢教会で行われた葬儀はタッピング夫妻の共同葬儀であり(ヘンリーが亡くなった時にセレモニーが行えなかったため)賀川氏も参列した。彼らの墓は東京多摩霊園にある。(注9)
彼女が創設した東京と盛岡の幼稚園は今なお運営されている。
エラおばあさんのスクラップ・ブックからの予期せぬ素敵な出会い。矢嶋さんやタッピング夫人を知ることによって時代を超えた女性パワーと行動力には、とても感銘をうけた。日本で幼稚園事業を開拓し、矢嶋さんの通訳者として米国で活動、信者として賀川の教えを伝承、白人として非常に居づらかっただろう戦争中も日本に居続ける道を選び、日本で土に帰ったジェネヴィーヴ・タッピング。ほんの少し垣間見ただけだが、矢嶋さん同様彼女のことを知り得た喜びは大きい。ネットフリックスででも彼女たちの人生をドラマ化してくれないだろうか?彼女たちのストーリ―はもっと人々に知れ渡ってほしい。
矢嶋さんとタッピング夫人に出会わせてくれたエラおばあさんのこのスクラップ・ブックに、私は深く感謝している。
注1:これらの報告情報は図書館へアクセスできない時期に集めたので、資料はウェブでアクセスできたものだけだということを予め断っておきたい。
また矢嶋さん同様、Library of Congressのウェブサイトから当時の新聞記事が検索できるので興味ある方は調べてください。https://www.loc.gov/
なお、同姓同名のMrs. Henry Toppingもいたし、ゴルファーでHenry Toppingの記事もあるので、調べる際には気を付けていただきたい。
注2:同じ記事がこれらの新聞に載っていた:11月18日はNew Britain Herald, 11月19日The Bismark tribune, 11月21日Arizona Republican. ほかにもあるかもしれない。
注3:宮沢賢治の詩はこれである:「タッピング家の人々」小 林 功 芳、英 学 史 研 究、第21号より引用:
「かなた」 と老 い しタ ピングは、 杖をはるかにゆびさせど、
東はるかに散乱の、 さびしき銀は声もなし。
なみなす丘はぼうぼうと、 青きりんごの色に暮れ、
大学生のタピングは、 口笛軽く吹きにけり。
老いたる ミセスタピング、 「 去年 なが姉 はこ ヽに して、
中学生の一組に、 花のことばを教へしか。」
弧光燈にめくるめき、 羽虫の群のあつまりつ、
川と銀行木のみどり、 まちは しつかにたそがる
―――
(大学生:ウィラード、姉:ヘレン)
注4:例えば:The Topeka state journal. April 14と April 15、1920の新聞記事 。4月15日の記事では演説したと記されている。
注5::「タッピング家の人々」ページ160。
注6:エラおばあさんのスクラップ・ブックから:
“I cannot invent new things
Like the airships that sail on silver wings.
But today, a wonderful thought in the dawn was given –
And the thought was this:
That a secret plan is hid in my hand:
That my hand is big, big, because of this plan.
That God, who dwells in my hand,
Knows this secret plan
Of the things He will do for the world.
Using my Hand!
Kawaga. ”
注7:「タッピング家の人々」ページ161。
また「タッピング坂」と名付けられた道が世田谷区桜上水5丁目にある。タッピング家族の存在がこの地区でも大きかったことを物語っているようだ。世田谷桜上水自治会が2008年に災害時に場所が分かりやすいよう道に「愛称」を付けたいということから「名前を決める際には地理的な特徴、歴史、分かりやすさなど色々な点を考慮し、全世帯を対象にアンケートを実施して決めました。」と自治会のウェブサイトに書かれてある。因みに、タッピング坂以外にも花火坂、そよ風坂などもある。http://setagaya-chousouren.org/list/2010/02/post-91.html
注8: New York Times, 12月27日1946。「タッピング家の人々」ページ161&165より。
注9:多磨霊園のウェブサイトよりhttp://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/topping_gf.html
注10:彰栄学園 https://www.shoei-yochien.jp/aisatsu.php
盛岡幼稚園 https://1907-mkg.com/greeting/ayumi.html