「わきまえる」処世術?

文・野口洋美

森義朗元首相(83)は、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長という自身の立場をわきまえない発言によって辞任に追い込まれた。

日本オリンピック委員会の評議員会に女性を増員することに対する森氏の感想を私は発言の翌日のニュースで耳にした。

「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる。女性というのは競争意識が強い。誰か1人が手をあげて言うと自分も言わなきゃいけないと思うのだろう。それでみんな発言する」というのが、森氏のコメントの全容だ。

そして、自身が会長を務める組織委員会の女性理事らは「皆わきまえている」と続けた。

私は、この「わきまえる発言」に強いインパクトを覚えた。

わきまえる移住者女性

カナダ社会において、英語が母国語でない移住者女性が発言しようとするとき、わきまえることが必要とされる。「わきまえる」とは「時と場所をわきまえる」ことであり、聞き手の気持ちを考える想像力を要する。

私は30歳を過ぎた頃、ほとんど英語が話せないまま英国系カナダ人と結婚し、オンタリオ州北部の田舎町に移住した。

何年かかったことだろう。やっと英語で複雑な会話もこなせるようになった頃、私は、話を始める前に「よくわからないのですが…」を多用していた。これには、まず相手に聞いてもらえる体制を整えるという目的があったように思う。

だか、この「よくわからないのですが…」は、夫の友人たちから高評価を得た。「ひかえめでかわいい」というのがその理由だ。私の日本の友人らが聞いたら吹き出すにちがいない。

カナダでも、「わきまえた女性」を好む男性は少なくないようだ。

後にカナダの大学院に在籍していた頃には、「提案してもよいですか」が私の発言時の常套句だった。目的は同じ「自分の意見を聞いてもらうため」だ。

聞き手に「発言内容」を聞いてもらうための工夫は、移住者女性にとってサバイバル・スキルである。状況やターゲットによって、最もふさわしい態度や言葉を選ぶよう心がけた私は「わきまえる女」だった 。そして、私はそれを悔やんではいない。

「考・わきまえる」

さて、森氏の問題発言から1ヶ月以上たった3月6日の朝日新聞朝刊で「考・わきまえる」と題した論評を目にした。

評論家の樋口恵子氏(88)は、「わきまえない女は反発され話を聞いてもらえない」「鏡の前で『感じのいい話し方』を練習した」などと話す。樋口氏は、その半世紀に渡る女性擁護活動の中で、時と場合に応じ様々なアプローチを使い分けてきたという。森氏よりも年長の女性活動家の悪戦苦闘が察せられる。

また、日本で起業した経営コンサルタントの宋文洲氏(58)は「ビジネスを成功させたいなら、上手にわきまえたふりをすることが必要」「わきまえていない人は周囲の支持を得られないから結果も出せない」と外国人ながら日本市場で成功した実業家の立場からコメントしている。こちらも自身の苦労がにじみ出る発言だ。

しかし両氏共、女性が、外国人が、弱者が、わきまえることなど考えず、ストレートに自分の意志を表現できる社会を待ち望むと結んでいる。

同感である。

それにしてもだ。総理大臣まで務めたオリンピック・パラリンピック組織委員会会長が、自分の立場と時代の流れを「わきまえていなかった」ことは、重ね重ね残念だ。

森義朗氏はだが、「日本において男女差別問題のディスカッションの場を一気に広げるきっかけを作った人物」として、多くの人々の記憶に残ることだろう。

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