矢島楫子と守屋東の「平和メッセージ訪問」

文・ケートリン・グリフィス

ここ2回エラおばあさんのスクラッブ・ブックから出会った矢島さんとタッピング夫人について書かせていただいた。今回も1921年の矢島さんの「平和メッセージ」訪問と彼女の「秘書」として同行した守屋東さん(もりや・あずま、1884-1975)について報告をしたい。(注1)

平和メッセージ訪問の際に、矢島さんが1万人以上の女性の平和祈願署名を米大統領ハーディングへ渡したのが、ワシントンDC軍縮会議が始まる直前の1921年11月であった。彼女はその後もアメリカ各地でスピーチを行い、1922年1月に日本へ帰国。私はてっきりこの「平和メッセージ訪問」は計画的に準備されたものだと思っていたが、実は矢島さんが短期間に決めたことであったことが分かった。

1921年の9月初旬に、矢島さんはアメリカ国民が日本の平和心を疑っている事実を知らされた。何かしなければと思い、11月に軍縮会議があるので会議があるワシントンDCに自ら赴き日本が平和を望んでいることを直接伝えようと思い立った。9月9日に行く決意を決め9月30日に出航した。(注2)

短期間に旅行手続きと準備をし、そして旅行資金を集め、一万人もの女性の署名をも集めた。当時20日間でこれらを成し遂げたのは矢島さん率いる矯風會の存在と、その充実したネットワークがいかに大きかったかを物語っている。軍縮会議の出席者やアメリカ大統領などに会える保障もないまま、それでも日本人も平和を願っている事を伝える為だけの行動だった事に改めて感服した。

出航の前日に矯風會で懇談会が行われた。そこで矢島さんは、自分の歳を考えると(89歳)戻って来られない覚悟であることを告げたそうだ。そしてミッションを達成する前に自分が亡くなったとしても、一緒に行く守屋東さんが意志を引き継ぎ「日本の婦人たちが平和を望んでいる」事を伝えぬく決意であることを明らかにした。(注3)

結果としては、矢島さんが無事戻ってきたことや、アメリカで温かく迎えられたのがわかっているが、その渡米が矢島さんにとってまさに命を懸けた平和メッセージ訪問であったことが改めて伝わる。そして矢島さんの同行人の守屋さんも大きな責任を担っていた事がわかった。

守屋東さんが何故同行人として選ばれたのかは書かれていないが、当時の彼女を知るのに役立つ記事があった。『第一線に立つ女 守屋東さん』と題したこの記事には守屋さんを「江戸前のサッと横殴りに拳骨が飛びそうな気の強い弁舌の前には5尺の男もちょっとタジタジとなりそうだ。」と表している。

なるほど、そのような女性ならアメリカでも物おじせず矢島さんをサポートするに最適だっただろうし、一人になっても矢島さんの願いを貫ける度胸もあったのだろう、と容易に想像できる。さらに記事には矢島さんと一緒に行ったワシントン訪問が「世界の舞台を踏んだ」ことへつながり、そして「その頃からアメリカ風の簡易生活が好きになった」らしいことも記している。(注4)

ワシントン訪問の際、報告の手紙を守屋さんが矯風会へ送っているのが新聞でも紹介されていた。達筆な筆さばきを見ても守屋さんは同行人としてふさわしかったのだろうと想像できる。(注5)

守屋さんと矢島さんの関係が覗える新聞コラムがもう一つあった。「お茶うけ」と題したゴシップ欄ぽいコラムで矢島さんがアメリカ訪問を終えてから体調不良続きだった、と伝えている。回復するまでずっと看病していたのが守屋さん。そしてその守屋さんが「へとへとになって昨日やっと自宅に帰ったが疲労がでた。。。ほんとうの病気になっている」と記してある。泊まり込みで看病するような家族付き合いであったことがうかがえる。同コラムでは守屋さんを矢島さんの「可愛いお孫さん」とも紹介している。きっととても仲が良かったのだろう。(注6)

では、その守屋さんの経歴を簡単に紹介したい。1884年東京麴町生まれで3姉妹の長女。母のわさは守屋家に嫁ぐ前、篤志看護師であったそうだ。父、守屋一は旧福岡藩(黒田藩)士族出身の医者。もと長崎医学校で学んだ父は「ハイカラ」であったらしく海外の道具や玩具が家にあった。1893年に父親が亡くなってからは母が娘たちを独りで育て上げた。

勉学を重んじる家庭の中で育った彼女は番町小学校と東京府立第一高等女学校を卒業後、仏英和女学校(白百合学園の前身)でフランス語、ユニヴァーサリスト教会(現:同仁キリスト教会。当時は宇宙神教)経営の宇宙女塾で英語と裁縫、東京音楽学校別科でバイオリンを習っている。しかし19歳の時に家庭が経済的に困窮していることに気付き音楽学校を中退し、職をもとめ東京市初の直営特殊小学校(通称貧乏学校。明治36年から東京市が設立した貧困児童対象の授業料無料の尋常小学校)で働き始める。

この小学校で4年間務め、その間に芽生えたのが彼女なりの「小さな社会改良の夢」だったようだ。(注7)

24歳から矢島さん率いる日本基督教婦人矯風會本部で有給職員となり女性運動のため多方面で積極的に動きまわっている。

ちょっと余談だが矯風會で出会った「赤毛のアン」の翻訳者村岡花子と親友であった。

守屋さんは特に未成年者の禁酒運動と廃娼運動を集中的に働きかけていたようだ。東京聯合婦人会の副委員長を務めたり、東京婦人会館の常任理事として村岡花子とともに会館の企画運営の中核を担ったりもしている。今でいう女性シェルターの運営も行っていて「婦人ホームの御大将守屋さん」として知られていた。(注8)

彼女の社会改良の夢は女性のためだけでなく肢体不自由児たちのためにもあった。長年資金集めに苦労した挙句、彼女は自分の理想とする学園施設「クリュッペルハイム東星学園」を1939年に開園する。彼女が目指していた学園は肢体不自由児の教育と自立と愛情を育む場所であると共に学校看護師や養護教員の養成所でもあり、このような教育機関は日本初の試みであった。しかし、戦争が始まったことも重なりこの学園は軌道に乗る前に断念せざるを得なかった。

理想とした学園を断念したものの守屋さんは今度は病院と女子中等学校を創立する。大東学園病院は小児科内科、産婦人科と夜間救急を設けていて1969年に閉院したが、学校のほうは現在では共学になり「大東学園高等学校」として続いている。(注9)

「クリュッペルハイム東星学園」は数年だけの運営であったが、その後も「誰もが大切にされるべき」をモットーに病院と学校を設立した守屋さん。私財と婦人会らの募金で夢を実現させた彼女の懸命な努力と使命感は、現在のわれわれにとっても大きな指標であり、もっと大きく評価されるべき女性だと思う。(注10)

エラおばあさんのスクラップ・ブックからまたしても、昭和前期に全身全霊で活動し日本女性運動を大きく動かした女性に出会った。残念ながら、矢島さん、タッピング夫人、守屋さんのストーリーはあまり認識されていない。改めて「歴史」を語る際に女性の活躍と視点が軽視されていることを痛感させられる。

日本の明治期から戦前にかけて女性が社会の表舞台で活躍することがなかった時代にさえ効率的な女性ネットワークがあり、色々な形でカッコよく生きてきた女性たちが絶えず存在した。このことを我々はもっと良く知っておかなければならないと強く思う。

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注1)今回もインターネットから集めた情報をもとに書いている。守屋さんが書かれた記事はほとんどインターネット公開されていない(2021年現在)。

なお、前回矢島さんを「矢嶋」と紹介した。しかし守屋さん著作の本では「矢島楫子」とあるので、矢島と改めてある。アメリカの新聞では守屋東さんを矢島さんの秘書として紹介している。

注2)1921年9月11日 朝日新聞 朝刊。「好戦国でない証拠立てに老体の楫子刀自が三十日出航で米国へ。日本婦人の代表」より。

注3)1921年9月30日 読売新聞 朝刊。「長途の旅中に万一の事があったら水葬にして 矢島刀自覚悟の渡米」より。

注4)1923年12月5日 朝日新聞 朝刊(読みやすいよう現代文にした)。シリーズとして「第一線に立つ女」があり、守屋さんはシリーズ第三回。守屋さんは確かにこの後「世界」を意識して行動したようだ。女性活動支援のため、満州・韓国、南洋の島、シンガポールなどへも渡っている。

注5)1921年12月19日 読売新聞 朝刊。「「驚異」とアメリカ婦人が矢島女史を嘆称 同行の守屋女史からの最近の消息」より。この訪問以前でも守屋さんは「婦人新報」と「婦女新聞」などへ記事を載せている。この時期には矢島さんの手紙代筆も行っていた。また矢島さんの伝記と矢島さんの活動を描いた紙芝居も出版している。常に達筆であり行動派でもあったようだ。

注6)1922年12月18日 読売新聞 朝刊。読みやすいよう現代文にした。

注7)参考:宇野 美恵子「社会教育における守屋東の思想と実践–矯風会運動から肢体不自由児教育へ」教育研究、 国際基督教大学学報(30),p85-106,1988。

注8)守屋さんは婦人シェルター「慈愛館」を運営し、女性の保護、教育、自立支援を行っていた。特に身売りの可能性がある女性が対象であったようだ。このシェルターは現在も新宿にあり「慈愛寮」として女性のサポートを続けている。「御大将」の表現は先ほどの「お茶うけ」コラムより。

注9)参考:宇野 美恵子「社会教育における守屋東の思想と実践」。この女子中等学校以外にも、幼稚園と夜間学校を運営していたそうだ。

大東学園病院に関してはこのサイトを参考にした:https://www.matsumura-iin.com/colum09/index2.html

大東学園のウェブサイトに写真付きで守屋さんの紹介がある。英語が禁じられていた戦争中でも守屋さんは英語の必要性を論じ、教え続けさせていた。https://www.daitogakuen.ed.jp/education/feature/

注10) 1938年の「文藝春秋」第16巻第2号 2月特別号に守屋さんが綴った「クリユツペルハイムと私」の記事がある。参考までに、日本の「肢体不自由児の父」と呼ばれている高木憲次が東京に「整肢療護園」を開設したのが1942年。彼の施設には政府からの寄付金とサポートもあった。Wikipediaより

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