2021年日本滞在記②「ジャングル老兵・シンドローム」
文・嘉納もも・ポドルスキー
前回の記事では、2月半ばに実家の手伝いのため日本に向かう道中のことを書いた。それから三カ月の滞在を経てカナダに戻って来たのが5月21日。滞在中の体験については一つの記事ではとても書き切れないので、今回はそのごく一部を取り上げる。
日本に到着してからほぼ一週間の私の心理状態を表せば「ジャングルで何十年も隠れ続けた後、とっくの昔に戦争が終わっていたことを知らされた日本人老兵のそれ」であろうか。名付けて「ジャングル老兵・シンドローム」、まるでトワイライト・ゾーンに迷い込んだ気がしたのである。
成田空港で抗原検査を終え、到着ゲートを出ると予約していた迎えのハイヤーの運転手が駆け寄って来た。「お待ちしておりました!こちらでございます」と、私の荷物を受け取るなりテキパキと車へと案内してくれる。
その頃はまだ日本の水際対策も今(7月現在)ほどは厳しくなく、公共交通機関さえ利用しなければ海外から到着したその日に自宅へと移動しても良かった。私は隔離期間が明けるまで東京のホテルにいても良いと思っていたのだが、母が「さっさと帰って来なさい」と言うので、成田から神戸までハイヤーを駆使するという大胆な作戦に出たのである。
走行距離が400キロを超えると法律上、タクシー会社は二人交代のシフトを組まなければならないそうだ。そのため私は一つの車内で7時間に及ぶ道のりを運転手二人と共にすることになる。
前後の席は分厚い透明のビニールシートで隔たれているが、お互いの空間は完璧に密封されているというわけではない。ふと「エアロゾール感染」という言葉が脳裏を過ぎったが、双方でちゃんとマスクをしていることだし大丈夫か、とあまり深く考えないようにした。
道中、「海外帰りの私」は極力「日本の皆様」との接触を避けるべきだと思い、サービスエリアに寄っても車から降りることをしなかった。運転手たちは途中で数度、トイレ休憩を取っていた。
三つ目のサービスエリアを過ぎたところで私が「あとどのくらいで着きそうですか?」と聞いたのを皮切りに、助手席にいた方の運転手が私を相手に世間話をし始めた。コロナ禍なのだから見知らぬ客とはなるべく口を利かないのが無難、と考えないのだろうか。
私自身、赤の他人と会話をするのは何カ月ぶりだろう、と思いつつも相槌を打つ。その内、運転手はすっかり打ち解けて笑い声まで発し、どんどん饒舌になる。私の方から打ち切るまで話は続いた。
実家に無事、到着したのは午前2時であった。荷物の消毒をして、シャワーを浴び、洗濯を済ませて二階の寝室で隔離体制に入る。それから二週間、食事は母と入れ違いになるようにタイミングを見計らって、自分一人の分を作って持って上がるつもりであった。お手伝いさんがこれまでも来ていたのだから、母の世話はその人に任せて。
ところが一日目から「食事は私の分もあなたが作って」と母に言われ、腰を抜かした。私の手料理を楽しみにしていたのは分かるが、もう少し待てないのだろうか、と首を傾げたくなる。それでもかなり神経を使いながら言われた通りに母の食事を整え、自分は二階で食べるというパターンを数日続けた。だが、どうも母の様子がおかしい。
階下からラインアプリで「疲れているの?」と聞いて来るので、大丈夫だと答える。「お手伝いさんも、あなたが不機嫌なのかって気にしてるわよ」と母。驚いてその理由を尋ねると「部屋に閉じこもって全然、下に降りてこないじゃないの。」と拗ねたように言うではないか。だって隔離って、そういうことでしょ、と説明するのも妙な気がした。
確かに東京のホテルで二週間も過ごすのは時間の無駄なのでハイヤーで神戸に直行した。しかしだからといって隔離を怠って、基礎疾患をたくさん持っている母といきなり「濃厚接触」して良いはずがない。この御時世なのだから85才の母はまだしも、働き盛りのお手伝いさんがそれくらいのことを知らないはずはない。
あれ、でもちょっと待てよ。そう言えばこのお手伝いさんはついこの間まで高齢者施設で仕事をしていた。なのに来る時はマスクをしているものの、手を洗うとすぐに大声でお喋りを始めて母の世話に取り掛かる。カナダではうちのお向かいのお爺さんを訪問する介護士たちは皆、車を停めると防護服に身を包み、手袋をはめてフェイスシールドをしてから家の中に入るというのに。
だが驚くのはまだ早かった。
仕事でお世話になった人にラインで日本にいることを知らせると、「あらー、お帰りなさい。ぜひランチでも。今週末はいかが?」と言われてしまった。思わず自分の送ったメッセージを読み直したが、「一昨日、カナダから帰りました」とちゃんと書いてある。老母の面倒を見に帰っている、ということも説明していた。お誘いは丁重にお断りしたが「何だかえらく固い事を言うのねえ」というような反応が返って来た。
その辺りから徐々に、私は冒頭の「ジャングルで何十年も…」の心理状態に陥り出した。もしかすると、空気感染だとか自主隔離だとかを真面目に捉えている私が間違っているのだろうか?
カナダではロックダウンが発令されると、すぐ近所に住んでいる夫の姉妹たちと裏庭で会ってもいけない生活になるのに、日本では緊急事態下でも知人と会食をして良いらしい。もしかするとカナダ人は皆、騙されているのか?コロナ・パンデミックを恐れてジャングルに籠っている必要はなく、もっと外界に出ても良いのか?
自分でもだんだん自信がなくなってきて、毎日、夫に電話をしては話を擦り合わせた。だがそれからもしばらく私の「ジャングル老兵シンドローム」は続くことになるのである。
(つづく)