76年目の終戦記念日(8月15日)の今日、歴史を風化させない為に一文を残したい
文 サンダース宮松敬子
「人は本当に悲しくて先が思いやられる時、涙なんかは出ないものよ」「泣けるのはまだ心に余裕がある証拠」。母が亡くなって今年で17年目になるが、生前幾度となく口にしていたこの言葉を、私は今でも決して忘れることが出来ない。
こんな思いを母に抱かせた理由は、国家が引き起こし、それに抗うことが出来ない無力な一国民の「戦争体験」と言う過去があったからなのだ。
今からさかのぼること77年前の1944年(昭和19年)の初夏。一民間人であった36歳の父の元に、赤紙(実際はピンク色)と呼ばれた召集令状が届いた。それは終戦を迎える一年前であった。
軍の上層部はすでに日本の負け戦を予感し、生きている若い男性たちが日に日に少なくなっていくことを知りながらも、敗戦を認めるのを頑なに拒んだ。そんな状況下で戦いを続行するには、年齢に関係なく、健康な男性なら容赦なく「にわか兵士」に仕立て上げ、戦場に送らなければならなかったのである。
すでに妻帯者として一家を成していた父には、3人の子供と自身の老親がいたものの、国がそんなことに忖度するわけもない。父は「僕が戦争に行くようではもう日本もお終いだな・・・」の言葉を残し国の命令に従ったのである。
当時私たちが住んでいた家の周辺からは、父の他にも二人の若者が出征した。この時の見送りは、戦後になってから古いニュースや映画でよく見るのとまったく同じであった。近くにある神社の境内などに、出征する軍人(たち)、家族、友人、近所の人々が集まり、千人針の日本手拭いを渡す。そして「武運長久」などと書いた旗を掲げ、軍歌を歌いながら駅までの道を歩き「バンザ~イ」を三唱して汽車を見送るのが習わしだった。
だが大袈裟な事が大嫌いで戦争を心底憎んでいた父は、この一群には加わらずたった一人で駅に向かい、皆が到着した時には長い駅の最先端に静かに立っていた。母は皆の手前をつくろうのに苦労したようだが、夫の気持ちも十二分に分かり言葉がなかったと言う。
本物の拳銃やサーベルなどを見たことも触ったこともなかった父であったが、招集令状が来てからはすぐに家族と引き離され、当時東京の麻布にあったと言う大日本帝国陸軍の連隊に送られた。
私の祖父に当たる人は、その時代に日記を英語でしたためていた教養豊な人で、米国ルイジアナ州セントルイス市で開催された万国博覧会(1904年10月)にも出かけていた。日本との国力の差を身を持って知っていた故に、開戦当初から「これはネズミと象の戦いだ」と何度も呟いていたそうだ。そんな家庭で育った父であったから、大国相手の戦いで自分が生きては帰れない事を十分承知していたのだろう。
逃亡すれば死罪、またその汚名は家族や縁者にも及ぶ時代。恐らく父は全ての事に目をつむり、しがらみを振り払い、決して逃れることの出来ない日本男子としての義務を果たすしかない運命にその身を任せたに違いない。
連隊に送られてから一ヶ月ほどは、「付け焼刃」の厳しい軍事訓練を受けさせられたようである。そしていよいよ近い内に東京を発ち、南方の“何処かの戦場”に送られることが決まった時、母は私を背負い、6歳の姉と4歳の兄の手を引き、食糧難の中ながら祖母が心を込めて料理した重箱詰めのお弁当を持ち最後の面会に出かけた。
それは焼け付くような夏日が続く8月の事で、駅から連隊までの道のりを歩く間も容赦ない太陽が照り付け、母は汗だくになりながらも子供たちに父親との最後の別れをさせようと必死であった。
到着後長い間待たされたが、ようやく家族の前に現れた父の姿は、やせ細り、袖を何重にも折ったダブダブの軍服、足が泳いでしまいそうなブカブカの長靴、延ばし放題のボウボウの髭・・・。母は思わず「あっ」と声をあげた。
当時の父は男ながら洗練したオシャレ好きで、豊かな家庭事情も相まって、自身の一ヶ月分の給料にも相当する英国製のバーバリーのレインコートなどをサッと着こなす粋人だったとか。だがその時の父のいでたちは「兵隊」と呼ぶのもおこがましく「一体こんな格好でどうやって戦場を駆け巡るのだろう!?」と母は驚愕した。
そんな時局でも軍上層部には十分な食料や物資などもあったようだが、そうした特権階級の人々以外の一般国民は、何事にもつましい生活を余儀なくされていた。父の変わりはてたその姿に、一歳二ヶ月だった赤ん坊の私は恐れをなしたのだろう。火が付いたように泣きじゃくり、最後に私を腕に抱えて抱きしめたがる父をとうとう拒み続けたと言う。
その後間もなく、にわか兵士になった父を乗せた電車は、日本を南下し何処かの港から戦地へ向かったようである。送られた戦場は、フィリピンに点在するミンダナオ島ともセブ島とも後に母は人づてに聞かされたが、軍当局からは何の連絡も入らなかった。
だが軍令で日本を南下したのであろうと思う手掛かりが、たった一つだけある。
それは兵士たちを乗せた電車が東京を出発して間もなく、当時私達一家が住んでいた東海道延線の戸塚駅を通過する時、父は折りたたんだ一通の葉書を車窓から投げたのだ。
幸いにも近くの畑で野良仕事をしていた農家の人がそれを拾い母の元に届けてくれた。今でも残るこの一枚の葉書だけが、軍の検閲で大方の文章を墨で消されていない父からの最後の便りになった。
とは言え、そこにはただただ家族の安否に終始する言葉が並び、母には「あなたは特に身体に留意し、子供たちのことくれぐれも宜しく願いたし」と書かれている。
それから一年半、つまり終戦から半年(1946年早春)ほど後に、区役所から役人の訪問があった。恭しく母に差し出された品は、父の“形見”と称するフィリピンからの石ころが一個、カラコロと乾いた音を立てる四角い小さな桐箱と、茶色い封筒に入った戦死の公報であった。
それを受け取った時の母の思いが、冒頭の言葉である。


父の遺作である油絵と墨絵。絵画、習字、短歌など屋号/雅号を持って楽しんでいたと言う。 生きていたら多くを学べたかもしれない・・・。
戦後の荒廃した社会情勢の中で、夫の母(義父は終戦後すぐに亡くなっていた)を含む子供たち3人の将来が、か細い母の両肩にずっしりとかかった瞬間だったのだ。
私は長ずるに従い、上手く立ち回ることに長けた人々の生きざまを見聞きするに及び、世の中の不条理、矛盾、不平等さを知り「父は何故あのような形で戦死しなければならなかったのか・・・」との思いが心の中に渦巻き、マグマのような黒い塊として沈殿して行くのを自覚するようになった。
時の経過と共に次々と明らかにされた戦後処理の調査報告書によれば、国民感情など二の次で敗戦を認めたがらない上層部の軍人たちがいる中、「8月9日に開かれた御前会議で(昭和)天皇自身が和平を望んでいることを直接口にしたことで降伏へと収束した」とある。
だが毎夏の終戦記念日に私が必ず思い出すのは、女流歌人・作家の与謝野晶子が残した「君死にたもうことなかれ」と題する一篇の詩である。当時晶子の弟が日露戦争(1904年)に出征した時に詠んだもので、「旅順口包囲軍の中に在る弟を嘆きて」と副題が付けられている。
“あゝをとうとよ、君を泣く、君死にたまふことなかれ”との書き出しで、中頃に‟すめらみことは 戦いに おん自らは出でまさね“(原文のまま)と著した一行がある。(注:すめらみこと=天皇)
当然ながら天皇自身も、国民を思い苦悩されたであろうことは容易に理解できる。だが戦場を駆け巡りはしなかったのだ。
私は今年も終戦記念日には、例年の通り一人静かに晶子のこの詩を口ずさんだ。
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折しも今年の広島(6日)、長崎(9日)の原爆投下記念日は、オリンピックが終盤に差し掛かるころに迎えた。17日間に渡る競技期間中には、悲喜こもごもの話題を提供しながらもまずは無事に終了。24日からのパラリンピック開幕の前には76年目の終戦記念日が巡って来た。
しかし頻拍する医療現場からは、パンデミックに対する政府の指導力の欠如した結果として、予期した通り慌てふためく医療関係者の悲痛な声が聞こる。まるで薄氷を歩むような日々が今も続いているが、政府は「オリンピック関連の人々の感染は累計で430人」とし、あたかも「心配していたほどではなかった」と言わんばかりである。
閉会式の翌日(9日)には、IOCのバッハ会長が、東京・銀座を訪れて散策したと言う。7月には柔道ジョージア代表の二人が、東京タワーを観光したとして参加資格証を剥奪されたにもかかわらず、上層部はいつもこうした特権が許されるのだ。まるで戦時中の軍指導者と、駒として使われ軍律を固守しなければひどく罰せられた兵士のようではないか。
各種競技で輝かし成績を収めたオリンピアンたちは、誰も「戦争を知らない若い世代」であるが、開幕するのかしないのかという不安の中でも、血のにじむような練習をして好成績を収めた。
称賛すべきことではあるが、その陰には政府が国家の大義を優先したことで、どれほど努力しても陽の当たらない、経済的にも困窮を極めている人々が多数いることを深く心に留めて欲しいと願っている。