日系アメリカ・コミュニティーと守屋東の「日本女性の誇り」
文・ケートリン・グリフィス
今回も矢島楫子さんと守屋東さんの「平和メッセージ訪問」に基づいた報告である。
守屋東さんのことを調べている時、面白い資料を見つけた。守屋さんが1938年に順天堂看護婦卒業生に向けた祝辞である。「日本女性の誇り」と題した彼女のスピーチはタイトル通り日本女性の誇り、看護婦の誇りに繋がるものであるが、ここで取り上げるのは「平和メッセージ訪問」に関連する箇所だ。スピーチ後半で守屋さんが「私がアメリカから帰国する際、若い二世の人たちに『もし市民権をとったならば日本へいらっしゃい。日本がどんなところかよく見せてあげるから』と言って来た。すると4人の娘が来ました。」とあった(注1)。
気になったので調べてみた。
シアトルから「4人の娘」が矯風會の招きで来日したという記事が1924年にあった。インタビューで「守屋さんのお世話になる」と言っているので間違いなく守屋さんはこの4人の事を指していた(注2)。
この4人の女性たちは5ヵ月間守屋さんと一緒にすごし、京都、伊勢、海軍兵学校や吉原遊郭、社寺や城などを観光し、楽しい時間を過ごしたそうだ。守屋さんはこの日本語が喋れない「ヤンキー娘」たちが日本の文化や習慣に感動したことが本当に嬉しかったと回想している。また守屋さんは彼女たちに「アメリカへ帰っても『ぼんやりしていてはいけない。帰ったらシアトルからロサンゼルスまで、日本を見たその気持ちを講演して歩きなさい。』『日本は西洋人が考えているように桜、藤、吉原だけの国ではない』ことを教えなさい」と伝えた旨をスピーチ内で語っている。
そこで、今度は帰国した彼女たちの行動を調べてみた。すると米国の邦字新聞に彼女たちの報道があった。守屋さんの意思をきちんと受け継いで日本滞在での体験談や感想を広く日系一世と二世へ向けて語ったことがわかった。一世へは日本語で講演したらしいので、守屋さんが「日本語が喋れない」と言っていたのは「流暢」に喋れないということだったのだろうか?もしくは日本滞在の数か月間で習得したのか?資料が乏しいので分からないことが多く、彼女たちの日記か何かあればいいのに、と思うとともに図書館へアクセスできるようになったらまた新発見があることを期待している。
さて、その彼女たちが日本滞在体験から得た「日本人としての誇り」メッセージに感銘を受けた日系人は大勢いた。その中には彼女たちをサンフランシスコで講演できるよう呼び寄せた「日米新聞」の創設者、安孫子久太郎と余奈子夫妻もいた。安孫子夫妻は彼女たちのような体験をもっとたくさんの二世が得るべきだと実感し「日本見学団」を企画した(注3)。
「4人の娘」がアメリカへ戻ったとほぼ同時にアメリカ政府が「排移民法」を施行した(注4)。 日米関係の悪化が深まるなか、解決に不可欠なのはコミュニケーションと教育であり、彼女たちが体験したような経験こそが日米の相互理解の架け橋になるのでは、と安孫子夫妻は思ったようだ(注5)。そこで「日米新聞」が主催者となり、旅費すべて主催者もちで毎年10人ほどの二世の学生(男女問わず)を当初は3ヶ月間日本へ送った(注6)。第一回と二回の見学団の責任者として日本へ付き添っていったのは安孫子余奈子であった(注7)。
そして、「4人の娘」たちが行ったようにこの学生見学団たちも帰国後は「見学団講演」を各地でおこない日本で得た印象、感想などを発表している。安孫子夫人の働きもあり、日系コミュニティーだけでなく白人(主に女性)たちの集まりでも講演をしていたようだ(注8)。
1921年にシアトルに立ち寄った守屋さんと矢島さんはタッピング夫人を通訳として迎え、シアトル日系コミュニティーとも接し、そこで出会った二世の女学生たちに「日本へおいで」と声をかけた。シアトルの女学生たちは旅費を貯め、日本へ行けるよう準備をした。当初10人で行く予定であったらしいが金銭的な理由などで最終的に4人だけが1924年に海を渡った。守屋さんの誘いで彼女たちの人生が大きく変わったのではないかと思う。しかも彼女たちの経験と体験に影響され「二世学生見学団」が設けられ、15年にわたって毎年何人もの二世たちが日本を実体験できるようになった。そして彼らの体験談が大勢の人たちに伝えられた。守屋さんの「日本は桜、藤、吉原だけではない」ことを告げたであろう。
1930年と40年代は二世学生見学団の活動も力及ばず日米関係は悪化していくのみで「平和の架け橋」は実現しなかった。しかし、コミュニケーションと教育が相互理解へ繋がると私も信じている。今年(2021年)は矢島さんが平和メッセージ訪問をして100年目になる。今なら日本は「桜、寿司、アニメ」と言われそうだが、それだけでないことを引き継ぎ説き続け、平和の架け橋がしっかりと固定されるよう行動していかなければならない。守屋さんの「ぼんやりしていてはいけない」は現代の私たちにも必要な言葉だと実感する。
注1)読みやすいようスピーチは現代訳した。今回もインターネットから収集できた資料をもとに書いている。守屋さんが「婦人新報」や「婦女新聞」などで彼女たちについて書いているだろうと想定している。読める日がくるのを楽しみにしている。
デジタル新聞を利用した。日系新聞に興味ある方は以下のサイトから検索できます。
https://content.lib.washington.edu/otherprojects/nikkei/
注2)1924年3月10日、朝日新聞東京・朝刊。『嬉し相な花の四少女 米国生れの日本女学生』。名は宮川とき、宮川さい、岡崎すみれ、木村きみよである。「少女」と書かれているが宮川とき子さんが21歳で他の3人は19歳であった。「日米新聞」1924年8月4日付けには1924年の2月に出発し、8月に戻ったとある。
注3)安孫子久太郎(Abiko Kyutaro 1865-1936)今の新潟県出身。1884年に渡米。余奈子(Yonako 1880-1944)津田梅子の妹。1908年に久太郎が日本帰国中に出会い1909年に結婚し共に渡米。サンフランシスコの日本YWCAを立ち上げた。
参照:鈴木麻倫子の「史料紹介 : 安孫子家文書から見る安孫子久太郎と須藤余奈子の出会い」と「安孫子家文書から見る桑港日本人YWCAの設立過程」京都女子大学大学院文学研究科研究紀要 史学編。2016と2017。
安孫子さんと彼女が立ち上げたYWCAの情報と写真がこのサイトから見れます:https://www.theclio.com/entry/22332
注4)排日移民法とも呼ばれる。基本白人以外の移民を制限・禁止した法であったものの1917年に日本以外の東洋人移民は排斥されていたので、日本人を対象にしていたのは明白であった。この年より日本からは年間146人の移民制限を強いられる事となった。日本人への人種偏見・差別は戦争中の強制立退・収容政策へと悪化するだけであった。
注5) 飯野正子「日系人にとっての戦後50年」『アメリカ研究』30、1996年。p34.
注6)五回目の見学団は3週間だけだったようだ。また「日米新聞」主催だけでなく他の主催者が増えていく。1939年までの見学団の記事があった。
注7)第一回の帰国後の安孫子夫人の報告が1925年6月29日「日米新聞」にある。そこで、航海中の17日間は日本語、礼儀作法などを集中的に行い「緊張したものでした」と述べている。また日本各地で盛大な歓迎を受けたものの、自分たちの見学団が男女混合であったため非常に驚かれたこと、日本ではまだ男女共学や公の男女の交際が許されていないが、自分たちの「秩序正しく振舞った男女見学団が日本社会によい例を示した」ことが良かったのでは、と締めくくっている。
注8)「日米新聞」1925.10.22。
見学団報告の一例として「日米新聞」の1926.05.31の3ページは「見学団一行の熱弁を満場感激して聞く 」をタイトルとして一面が彼らの報告で埋まっている。
写真:Library of Congress(ワシントン訪問の時、グループ写真)
写真:1920年代シアトルの日本街:http://nikkeijin.densho.orgから