文化の違いより、普遍性を見る時代へ

文・広瀬直子

私は、四半世紀住んでいたカナダから2019年に日本に出戻って、関西の私立大学で非常勤講師の仕事に就いた。日本の学年度は4月に始まるので、今ちょうど3年度が終わったところだが、この2年度はコロナ禍対応授業をしている。今はかなり慣れたものの最初はチャレンジングだった。

一方で、コロナ年度が2年間あったおかげで、世界で開催されているオンライン学会でのスピーチを毎週のように聞く機会に恵まれている。私の仕事は翻訳者、そして英語の教員で、言語学の一分野である「応用言語学」分野に属するのだが、超ラッキーなことに、バイリンガルやマルチリンガルの人の研究で世界的に有名な言語学者さんたちの話を聞くことが頻繁にできるようになったのである。

もちろん、学者さんによる学会のスピーチは理論的だ。難しいこともあるが、長年翻訳と英語関係の教員をしてきた私が、仕事で経験してきたようなことが見事に明文化されていて「そうそう!そうやねん!」と猫の背中をトントン叩きながら聞いていることが多い。日本語と英語を使って生きてきた私、そして周囲のバイリンガル、マルチリンガルの友人や家族の脳の中身が説明されているからだ。ここでは、そういったスピーチから私が学んだと思うことを簡単にまとめるというリスクを取ってみる。(深い内容を簡略化すると趣旨がずれることがあるので「リスク」)。

変わりゆく学術的思考のパラダイム

現在、世界を率いる言語学的に主流な考え方を、私なりに解釈して、私風の簡単な言葉にまとめるとこうだ。

現代は、言語を分類する時代から共通のことに重点を置く時代にシフトしている(した)。「日本語」、「韓国語」、「英語」とかいう分類は、政治的、イデオロギー的な分類であり、クッキリした境界線なんて実はないんちゃう?

二言語以上を話す人は、頭の中で「日本語」から「英語」へ、またはその逆へと「切り替え」ているわけではないことが、脳のスキャンを使った実験などで科学的に証明された。いわゆる「言語脳」は人類に普遍的な部位のことで、それが出現する薄い表面の一部が「日本語」であったり「英語」であったりするだけだ、と考えられるようになった。

確かに、私は日英間の翻訳をするとき、頭を切り替えてはいないと思う。日本語部分と英語部分があって、その間でやり取りをしているのでもないと思う。元の言語から状況、アイデア、概念、イメージなどを捉え、それを対象言語で表現しようとするという、少しフワフワなところがあるプロセスかもしれない。

また、英語を学ぶ日本人の学生さんを見ていると、新しく学んだ英語表現を追加として蓄えているというよりは、今まで生きてきた文脈の中で捉えて、自分に馴染ませている人が成功しやすいように思う。

言語間の線引きがあいまいになることは、分類にこだわってきた人類が歓迎すべき現象であるだろう。文化的「違い」へのこだわりは、ステレオタイプというネガティブな問題を生み出し、「私たち」と「あいつら」という対立につながる。

実際に食べ物(芸術も?)の世界では、すでに線引きがあいまいになって、「フュージョン(融合)」料理がたくさん創造されている。しかしその一方で、伝統的な料理も引き継がれていってほしい。和食フレンチなんかのフュージョンも楽しみたいが、京都の料亭で出される本格的な懐石料理はそのまま残ってほしい。和食は世界遺産に指定され、その価値が世界的に認められているから残るだろう。

言語の世界でも、最近世界に冠たる文学賞を取っている作品などは、著者が母語ではなく第二言語で書いていたりして「日本文学」とか「アメリカ文学」とかひとくくりにできないものも多い。その一方で、シェイクスピアや芭蕉など、翻訳されてもすばらしいような普遍的な価値のある古典は残っていくだろう。

そう、これからの焦点は「普遍的な価値」なのだろう。文化に線を引いて語ることはもはや古い。私の周囲にいるバイリンガルやマルチリンガルの人たちはすでに、線を引かない世界を楽しんで生きてきたし、「日本語」「英語」「ドイツ語」など、複数の「玄関」を持っているので普遍的な価値が見つけやすいかもしれない。「差異」にまだこだわる人は、彼・彼女らから学ぶことがあるかもしれない。

注:今の日本のメジャーな大学は4月始まりの春期、9月始まりの秋期があり、特に留学生など、9月から始める学生もいる。

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