1920年代に日本を訪れた曽叔父母
文・ケートリン・グリフィス
前記事で私の曾叔父オースチン・グリフィス (1863-1952)のシアトル日系コミュニティーとのつながりについて紹介した。ワシントン州上級裁判所判事であった彼の書籍がワシントン大学図書館にあるが、デジタル版ではない為、直接大学を訪れないかぎり彼の資料の閲覧は残念ながらできない。
しかし、オースチンの自伝・回想書は手元にある。彼が日本を旅行した時の様子も記されていたので翻訳をしたものを今回の記事として載せたい。オースチンがこの自伝を書き始めたのが晩年であるため、記憶違いがあることなども踏まえながら読んでいただきたい。
オースチン・グリフィスが初めて日本を訪れたのは大正10年(1921年)の夏で、この時は一人旅であった。二回目は昭和4年(1929年)で、エラおばあさんと日本へ行きたいため、夫婦でのアジア旅行を計画したそうだ。今回は最初の日本訪問時の部分を紹介したい。大正時代の日本と海外からの旅行者の関係を垣間見ることができるので興味を持ってもらえたら曾叔父オースチンも喜ぶと思う。
自伝・回想書のタイトルは「Great Faith」 以下、ページ273より
Chapter 45:“To Japan 1921”
多忙であった1921から1929年は、判事としてだけではなく他のことへも好奇心をたくさん抱いていた時期であった。
1921年の夏休みは日本で過ごした。我が国、特にカリフォルニア州の日本へ対する感情悪化増加が気になっていた。排日移民法を政府が検討しだしたのもこのころであった。
日本では自分がプリンスでもあるかのような優遇を体験した。多くの地位の高い政治家たちとも接した。商務大臣、元シアトル領事には「なぜ日本人の入国が拒否されてしまうのか」と質問された*1。根拠もない理不尽な人種差別であることを伝えるのが恥ずかしく、排日移民法が経済的必需性からであると説明しようとした。安価な労働者としてアメリカへ来る大勢のアジア人を我が国が拒むのは、日本が安価な韓国人労働者との競争を日本で認めないことと変わりはない、と伝えた。
もし、私たちが排日移民法を経済面からだけにとどめて、方策も分かりやすいものにしていたのなら、アジア人たちのアメリカへ対する悪感情も積もらなかったであろう。後の太平洋戦争もあそこまでおぞましく悪意に満ちたものにならなかったのではないだろうか。人種として見下されている対応へ対する恨みは深まるだけだ。
東京の警察署長が英語の話せる中尉を補助として私に付けてくれ、終日東京を案内してくれた。彼のガイドで私はオリエンタル街の貧困と罪業を実際にみた、吉原という歓楽街もみた。
警察学校内の案内では、薄暗い教室で眼鏡を付けた研修生たちが真剣に勉学に励んでいる姿をみた。また日本で警官になるために必要とされている柔術と剣道の練習風景も見学できた。
東京では帝国ホテルに泊まった。丁度アメリカでも有名な建築家フランク・ロイド・ライトの設計による新築工事中であった。横浜ではグランド・ホテルを選んだ。ここはのちに地震と火災で破壊されたそうだ。横浜では迷子になった日があった。路面電車にのったまま行先が分からず、とりあえず大声で助けを求めた。そのうち私の英語を理解し、ホテルまで案内してくれると言ってくれた男性が現れた。彼はシルク商人で横浜、東京と神戸に事務所を構えていた。彼の勧めでホテルへ戻る前に街を案内してもらうことになり、彼の事務所へも立ち寄りお茶もご馳走になった。その後、私は東京でも彼のオフィスに行き再会した。
以前1910年にロンドンで会ったトマス・バティ博士を訪ねた*2。彼は当時国際法律連盟の秘書をしていたが、私の予想通りこの度は日本の外務省に勤めていた。彼は私の面会を快く迎え気持ちよく応接してくれた。彼の計らいで東京倶楽部へも臨時入会できた。私のためのランチもそこで開催され、ミシガン大学卒業生でもある日本人弁護士たちに出会えた*3。その中の一人、岸清一博士はランチ後、東京を案内してくれた。
日比谷公園内の御所門近くまで来た時、警備員に止められた。その警備員は非常に怒っていた。交わされた言葉は理解できなかったが、どうやら勾引されるところを岸博士が話をつけ逮捕されずにすんだらしい。ちなみに二度目の日本行きでもこの友人と出会った。彼と最後にあったのはロスアンゼルスのオリンピックでであった。昇進しナイトとなった彼はバロン・岸という称号をもち、アジア体育協会会長であったこともあり、日本のオリンピック選手たちのリーダーとして来米していた*4。
できるだけ日本の裁判所を訪れるようにした。ある午後、東京の大きな監獄をめぐっているときに聞き取れる英語で私を呼べ止める女性がいた。彼女の訴えは、自分は横浜にいるべきで間違って監禁されている、ということであった*5。英語を理解できた彼女の訴えを聞き届けるべきだと思ったので、監獄を退出したあとYWCAに電話をし、これについて調べてほしい旨を伝えた。次の日、帰国のための出航であったが同船でカナダのバンクーバーへ向かう女性が「自分はYWCAの会長であり昨日の私の電話で直ちに東京YWCAがその件について調べ始めた」と伝えてくれた。
日本では一度も日曜日遵守(安息日)に従わなかった。
― 以下略
ここからは帰りの船の中での出会いや会話の回想文である。その翻訳の紹介はまたの機会に譲りたい。ちなみに彼の「夏休み」が何日間であったのかは記されていないが数回の日曜日を過ごしたようなので3週間か3週間弱の滞在であったのではないかと勝手に推測している。
それにしても、私の曽祖父が大正時代に日本に旅行したのだと思うと不思議でなんとも言えない。
*1:当時の農商務大臣は山本達雄だが彼が元シアトル領事であったことは確認できない。時代的に当てはまる元シアトル領事は松永直吉か高橋清一である。
*2:Dr. Thomas Batyウェキペディアに彼の項目があるので興味ある方は検索してください。
*3:オースチンもミシガン大学法学部の卒業生である。
ちなみに東京倶楽部は1884年に開設された「立派な紳士」であることが入会条件の会員制社交クラブ。現在六本木にビルがあるらしいが、オースチンがランチをしたときは麹町(現・霞が関)にあったようだ。
*4:アジア体育協会とオースチンは書いているが、大日本体育協会であるようだ。
岸清一についてはウィキペディアやこちらから参照できます:https://www.ssf.or.jp/ssf_eyes/history/supporter/05.html
*5:余談であるが牢屋・監獄が「刑務所」として改名されたのは1922年である。