恒常的な力関係の不均等が生み出す理不尽 その①

文・嘉納もも・ポドルスキー 

私は大のスポーツファンなので、競技に関わらずスポーツの世界で起こる事柄に関していつも関心を持って情報を収集している。

最近、フランスのスポーツ記者のロマン・モリナの活動がとても興味深い。彼は主にサッカーに関する記事を書いているようだが、その中でも各国の連盟や協会で横行している性虐待や各種ハラスメントについて詳しく調べている。

驚くことにフランスのサッカー協会では40年も昔から(コーチや協会役員が未成年の選手に対して行った)様々な虐待の事例が報告されているにも関わらず、公表されずに示談に持ち込まれることがほとんどなのだそうだ。

しかも虐待を犯した大人たちは処罰されず、せいぜい別のチームや地方協会に移籍させられるくらいで済んでいる、とモリナ記者は嘆く。

カナダではついこの間、Hockey Canada (アイスホッケー協会)の会長と理事会が全員、辞職した。2018年の世界ジュニア選手権でカナダを代表した選手の何人かが集団で性犯罪を犯し、それを協会関係者たちが公表せずにもみ消そうとしたことが発端であった。

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会長・副会長たちが議会でスポーツ相のパスカル・サントンジュに糾弾され、主要スポンサーたちが次々と協会への支援を停止し、ついにトップが総辞職に追い込まれたのである。

モリナはカナダの政治家たちの対応をフランスのそれと対比させ、自国のスポーツ相アメリ・ウデアカステラに向かって「ちょっとは見習ったらどうだ」とツイートした。

今回のカナダの事例は、アスリート自身が加害者であるためフランスの例とは少し違った話になるが、組織が保身のためなら犯罪に目をつぶる、という共通点はある。そして少なくとも隠蔽がいったん表沙汰になれば、責任者は社会的に罰されるところが羨ましいとモリナは思っているようだ。

だが、実際はフランスが特に遅れている、というわけではない。むしろカナダがスポーツ界におけるハラスメントやその他の倫理問題に関してとりわけ敏感なのだと私は感じている。

きっかけはおそらく1998年の「シェルドン・ケネディ事件」であったと思われる。当時まだ現役のプロ・ホッケー選手であったケネディが、自分のジュニア時代のコーチから性虐待を受けていたことを公表した衝撃的な事件で、ホッケーを国技と考えるカナダ人の間で一気に意識変化が求められたのである。

それ以降、未成年者に携わる活動を行いたい場合は、コーチであれ、ボランティアであれ、警察による身元チェックを通らなければ許可が下りないような風潮が広まっている。日本やフランスなどではそこまでの危機管理の必要性を感じ、実施しているスポーツ組織はないのではないかと思う。

それにしてもスポーツの世界はとかく虐待が起こりやすい環境だ。コーチや監督などが自分たちの影響下にいるアスリートたちに対して多大な権力を振るえるため、「恒常的な力関係の不均等」が存在するからである。

少しでも上のレベルのチームやリーグに行きたいと欲する選手たちは、指導者に睨まれるとその道が絶たれることを痛感している。だから不当と思える批判にも、屈辱的な扱いにも黙って従い、時にはそれ以上のことにも耐えなければならない、と思い込んでしまうのだ。

通報すればどんなしっぺ返しを受けるか分からない、訴えたとしても信じてもらえないかも知れない、馬鹿を見るのは自分だけだ、とアスリートが黙っているのを良いことに、加害者たちは次々と犯罪を重ねる。そういう図式はカトリック教会における聖職者たちの性虐待スキャンダルでも明らかになった。

どう考えても悪いのは、自分の影響力を間違った方向に使っている指導者であるにも関わらず、罪悪感を抱くのは黙って仕打ちを受けざるを得なかったアスリートであることも実に腹立たしい。

だが近年は徐々に、過去に起こったことに向き合い、加害者を訴えてその蛮行を公の目にさらす人たちも出てきている。そのような勇気のある行動こそが次の被害者を出さないことにつながるのだが、何年も昔に起こったことを、わざわざ日常生活の平穏をぶち壊してまで蒸し返すのはなかなか出来ることではない。

私自身(間接的、ではあるが)そのような事態に遭遇した経験を持っているので、それは断言できる。

(つづく)

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