義母の死に思う
文・嘉納もも・ポドルスキー
10月の後半が非常に忙しい時期になることはずいぶんと前から分かっていた。自分でそのように日程を組んでいたのだから当然である。趣味としているスケート大会でのボランティアを二週連続、テキサス州とバンクーバーでこなしてから、日本に帰国して一カ月半ほど滞在する予定にしていた。
ところが二つ目の大会に向けて発つ前日、まさにスーツケースを閉めて玄関に持って行こうとしていると義妹から電話が掛かって義母が亡くなったことを知らされた。ハードな日程がさらにハードになった。
義母は93歳の高齢で、2010年から施設で暮らしていた。数か月前から弱っていたので亡くなったこと自体は大きな驚きではなかったが、家族の死はどんな時であっても実際に遭遇するとショックである。さきほどお通夜の会場で飾るための写真を探していて、色々な思い出が蘇ってきた。
義母はどこにいても目立つほどのクールな美人だったが、イギリス人の家系に生まれただけあってドライなユーモアを操る術も心得ていた。今でも我が家で語り草となっているのは、夫のMと二人で婚約することを報告しに行った時、「あら、これで我が家の青い目の遺伝子が途絶えるわね」とサラリと言ってのけたことである。五人の子どもの内、Mだけが彼女の眼の色を受け継いでいたのに、アジア人の私と結婚することで孫への継承は絶望的になったというわけだ。だがこのコメントには全く嫌味がなく、私も大笑いしたのを思い出す。
義父は仕事で長期間、家を留守にすることがあったので、義母は今でいうところの「ワンオペ」で三男二女を育て上げた。そしてその後は計11人の孫の面倒を20年以上に渡って良く見た。特に赤ん坊の扱いが上手く、私たちも適切なアドバイスや励ましを受けて本当に助かったものである。
だがとことん家族のために人生を捧げたため、あまりそれ以外の人間関係や趣味に時間を費やすことがなかったのも事実である。義父のリタイア後は夫婦で旅をすることを楽しみにしていたのだが、彼が病を患うようになると今度はその介護に追われた。おそらくそのストレスから今までの不満が一気に表面化したのだろう。義父母たちの家の雰囲気はかなり重苦しいものになった。我が家の息子たちは、残念ながらその時期のグラニー(お祖母ちゃん)の思い出ばかりが強烈に残ってしまったらしい。
さらに義父が亡くなってからの義母は施設でどんどん塞ぎ込み、あんなに愛した家族にも心を閉ざしていったので、私たちはここ数年ほとんど彼女に会っていない。そんなこともあって長男などはさほど悲しみを見せず、淡々と喪服の相談をして来るだけで、仕事があるから葬儀の後のレセプションには出席できないとさえ言う。
アルバムに残された沢山の写真を見れば、どれほどグラニーが工夫を凝らして孫たちを楽しませてくれたのかが明らかなのに。クリスマスには手作りのカードが添えられたプレゼントを準備し、卒業式やバースデーなどのイベントにも必ず足を運んでくれたのに。家に招かれて手料理をご馳走になったことは数知れないのに、全て忘れてしまったのだろうか。
かくいう私も義母にさんざん世話になったくせに、義姉妹たちが頻繁に彼女の元に通っているのを良いことにしてほとんど面会に行かなかった。Mも行かないから、あるいは自分の母親のことで手一杯だから、とどんな理由を挙げたとしてもそれは言い訳にならないのだが。
この度の義母の死に際してつくづく自分の残された年月の過ごし方を考えさせられたが、あまり明確な答はない気がする。人生の大半を掛けて積み上げた功績であっても、最後の何年かの振る舞いで跡形なくかき消されてしまうのであれば何ともやりきれない。だが結局はその都度、自分がベストと思うことをするしかなく、それが後々になって周りからどう評価されるかまではコントロールできないのだから、あれこれ思案しても仕方がないだろう。
美しかった頃の義母の写真をなるべく多く集めて、偲びたいと思う。
