同窓生のLINEグループに参加して

文・嘉納もも・ポドルスキー

カナダにいても日本の無料通信アプリLINEを使っている人は多い。私も日本の家族や友人たちと連絡を取るのにとても重宝していて、今では欠かすことができない。

最近、参加しているLINEのグループがひとつ増えた。中学から高校の5年間を過ごした神戸の私立女子校の同窓生グループから名簿のアップデートを機に登録のお誘いが来たのだ。

このLINEグループはかなり活発で、気が付くと20近くもの未読メッセージが溜まっていることがある。送り主の中には良く知っている名前も見られるが、何人かは結婚後の名前から必ずしも旧姓が思い浮かばなかったりする。投稿メッセージの内容からその人の正体を推測し、久々にその存在を再認識するのも楽しい作業である。

過去のエッセイでもたびたび触れているが、私は幼少期から15歳まで過ごしたフランス時代、そして大学院留学を機に移住したカナダでの滞在期間を合わせると、人生の4分の3を海外で過ごした計算になる。にもかかわらず、一番親しい友達として今でもずっと付き合っているのはこの神戸の女子校で知り合った人たちなのである。

父の駐在終了に伴って私が住み慣れたフランスから「(ほぼ)未知の祖国」に戻ったのは1976年である。当時はまだ帰国子女の存在が珍しかったはずだが、私を受け入れてくれたカトリック系の学校は校長先生ご自身がフランス生活を経験していたこともあり、とても柔軟に対応してくれた。

学年をひとつ落として編入した私は、周りの級友たちからすると体格・物腰・発言のどれをとっても相当大人びていたに違いない。だが一年もすると私はすっかり溶け込んで、楽しい学校生活を送れるようになっていたのである。

この話をすると私と同じく長期に渡って海外で育った人たちはしばしば驚く。「幼稚園からずっとフランスの現地校に通って、日本の学校に行ったことがなかったんでしょう?それなのにどうやって馴染めたの?」と。

自分でも不思議なのだが、日本への帰国後の順応は極めてスムーズだったと思う。長年暮らしたフランスを離れるのはもちろん悲しかったし、学校の勉強も全く新しいシステムに従って一からやり直すのは不安だった。だが比較的早い時期に「二つの国で教育を受けられることは自分にとって得だ」と気付いたのも事実である。ものごとを冷静に、相対的に見られる年齢に達していたのも功を奏したのだと思う。

いや、細かいことを言えば戸惑ったことは色々あった。日本の歴史や地理に関しては全く知識がなく、初めての実力テストでは白紙の答案用紙を提出して先生を仰天させた。日本の学校では常識とされる習慣や人間関係のパターンにも最初は疑問を持った。「なぜトイレに友達と連れ立っていくのか?」や「なぜテストの結果が良かったのに返却された答案をひた隠すのか?」など、フランスではあり得ない光景を見たからである。だがそれらも悩みの種というほどではなく、慣れてしまえば何とも思わなくなった。

逆にフランスの学校にはない「祭」と名のつく楽しい行事が日本の学校には多かった。文化祭ではクラスメイトとロックバンドを組んで出演し、体育祭では応援団の衣装を自分たちで制作して参加した。合唱祭では指揮者に任命され、譜面も読めないのにバトンを振った。

放課後に友達同士で家を行き来するということも日本に帰ってはじめて経験したことである。試験前にお互いの家に泊まって一夜漬けの勉強をするなど、フランスでは考えられなかった。

先日、ネットフリックスで「ドラゴン桜」という東大受験をテーマにしたドラマを夫と見たのだが、私は大学受験でさえも良い思い出が多い。世界史の年号を暗記するために考案したくだらない語呂合わせや、塾の夏期講習で友人たちと見つけた超ハンサムな男子学生、入試当日に母が持たせてくれたお弁当などは今でもはっきりと憶えている。

帰国子女であるかないかに関わらず、中学から高校にかけての数年間は人間の成長過程において非常に多感な時期である。その年齢の頃のことは思い出したくないほど辛かったと言う人は、日本に限らず世界中にたくさんいるだろう。そんな苦労を味わずに青春時代を過ごせた私は本当に幸せ者なのだと思う。

半世紀近く前の春の日、ちょっと変わった転校生を温かく迎えてくれた同窓生たちに思いを馳せながらLINEで届く近況報告を読む。還暦を越しても乗馬の大会やバレエの発表会に出たり、グラフィックデザイナーから転じて阿闍梨となったり、イタリアの繊維会社の専属エージェントを務めたり…それぞれの道を辿ってきた友人たちと、次の帰国時にはぜひ直接会ってみたいと思う今日この頃である。