ハウスボート
文・ケートリン・グリフィス
引っ越しの予定はないが、時折「トロント家探し」サイトを検索する。どの様な家やマンションがどんな値段で売りに出されているのか、内装はどうなのかを見るのが楽しいからである。
このように何気なく検索していたらハウスボートという種類の物件がある事に気が付いた。オンタリオ湖の上にある「家」なので「ハウスボート」と呼ばれているのだろうが、実際浮く事しかできない為、ボートと呼ぶより「フロートハウス」と呼んだ方がふさわしい物件だ。お洒落な内装やお風呂まであるこのようなハウスボートを見ながら、1960年ごろまで瀬戸内海や九州で見かけることができた船住まいの漂海民「家船(えぶね)」を思い出した。
家船とは、まさに船が家であり、そこで生活をしていた人たちの事を指す。家族ぐるみで船に住み、海上漂泊生活をしていた。このような海上生活者たちは昔から各地にたくさんいた。ある由緒書からは神功皇后から海のどこででも漁獲することの許しを与えられたという説話があるほか「吉和太鼓踊り」(広島県指定無形民俗文化財の一つ)の伝承は足利尊氏からどこでも漁ができる特権を与えられた漁師たちが喜んで踊ったことが始まりであるとされている 。(注1) これらは古来から海上生活者たちがいたことを示してくれるが、ただ家船に纏わる文献が乏しいため歴史的にどのような生活を彼らが過ごしていたのかは未だ明らかではない。一説では家船にも率いる首長が存在して、掟を守って集団暮らしをし漁だけでなく軍事行動にもすぐれていた、とある。(注2) 足利尊氏の伝承からも伺えるように戦に参加した家船集団がその功績として漁業権を得たのであろう。これは、戦国時代に大きな勢力を誇示した村上海賊など瀬戸内などに多く存在した「海賊」と関係するのだろうか?興味が尽きない。
海に囲まれた島国の日本ですら歴史の授業の重点は政治や定住的な稲作農耕を営む人々に充てられている。しかし、家船のように流動的な生活者たちがいたことを忘れてはいけないと思う。特に江戸時代の藩制度で移動が厳しい時代でも海の上が家だという人達が集団で各地の浜辺で物々交換をしていた事実は閉鎖的な江戸時代のイメージを揺さぶってくれる。ただ、さすが江戸時代の檀家制度の在り方と言うべきか、例えば今の広島県三原市能地にある善行寺には「宗旨宗門改人別帳」があり、その辺りを昔から頻繫に漁をしていた家船は必ずお正月かお盆(もしくは2回とも)にはこの寺へ参り、生存確認(別帳を更新)をせねばならなかったそうだ。(注3) 明治時代の義務教育制度などから家船の子どもたちが徐々に親と離れ陸で学寮生活を強制され、それに加え戸籍法,徴兵制などで大人も陸上に定着しはじめ、1960年以降には家船生活者の姿は消えてしまった。(注4)
今では海や浜辺で家船を見かけることはないが、三原市の春祭りは昔「船留祭(ふなどめまつり)」と呼ばれており、善行寺へ‘報告’参りをするため家である船をそこに留めたことから名付けられたことが容易に連想できる。しかし祭りの名も変わり、家船生活者たちの面影もなくなった。それでも家船は日本の歴史を考える上で忘れてはいけない存在だと思う。
画像は昭和30年代に写真家、中村昭夫が尾道で撮影したもの。


注1)「改訂新版 世界大百科事典」(平凡社)家船(えぶね)項目を参照。
注2)谷川健一「甦る海上の道・日本と琉球」 (文春新書)を参照。
注3)沖浦和光著「瀬戸内の民俗誌」(岩波書店)を参照。
注3)「家船民俗資料緊急調査報告書」を参照。