『家仕舞い』について

文・嘉納もも・ポドルスキー

昨夜、妙な夢を見た。

それは私が夜中に仲の良い女友だちを数人連れて、家に帰っている光景で始まった。場所は日本、「家」というのは神戸の実家だ。

重い鉄の門扉をくぐり抜けて奥の木戸を開ける。楠や柿の木に囲まれた家にはまだ明かりが灯っていた。「ただいま~」と玄関で言いながら友人たちと上がると、応接間では見慣れない人々が大勢集まって何かの話し合いをしているようだった。

室内に新しく施されたリフォームやインテリアの説明をスーツ姿のお兄さんがしていて、人々は熱心にそれを聴いている。そこでようやく私は理解した。

これは「売り家の内覧会」なのだ。

同時に血の気が引く思いがして、友人たちを振り返り、叫んだ。

「忘れてた!もう、ここは私の家じゃないんだ!」

*****

この夢は、明らかに私の母の家が数か月前に売却されたことに基づいている。実際は内装のリフォームだけでなく家そのものが解体され、700坪の敷地に小ぶりな一戸建てが何軒か立ち並ぶ予定である。

私は1987年にカナダに留学生として来たが、日本には「親の家」が存在しているということをずっと拠り所にしてきたと思う。自分で言うのも照れくさいが、本当に美しい、自慢の家だったのだ。

1988年には同居していた祖父が亡くなり、1992年に父が亡くなってからも母がずっと一人で住んでくれていた。私が結婚して家族を連れて日本に帰る時はいつもそこに滞在させてもらっていたので、夫や息子たちにとっても馴染みの深い家だった。

六甲山脈を背に佇む神戸・御影の住宅街は、20世紀初頭から多くの実業家(白鶴酒造、武田薬品工業、伊藤財閥、乾汽船、ファミリア等々)たちが豪奢な邸宅を構えた場所として有名である。第二次世界大戦後に母方の祖父、洋画家の小磯良平は親友の武田長兵衛氏の誘いを受けてその一角に家を建てた。1949年のことである。

母は21才で嫁ぐまでその家で育ち、父の駐在に帯同してイギリスとフランスで11年間過ごした後、1976年に帰国するとまた神戸に戻って祖父母と同居することになった。3年前に施設に移るまで実に半世紀以上、同じところに住んでいたことになる。

台所に立つ母(2010年)
応接間(2021年)

私の場合、厳密にいえば「自分の家」であった期間はもっと短いのだが、2011年に母が大病を患ってからは年に最低3度は訪れて色々なメンテナンスや片付けに携わってきたため、非常に思い入れが深いのである。

ところが不思議なことに、売却の手続きが全て完了した時には思ったほど落ち込まなかった。やれるだけのことをやった、という達成感があったからだろうか。

冒頭のような夢を見たところをみると深層心理では隠された悲嘆があるのかも知れないが、3年前に初めて家を手放す話が具体的に持ち上がった時のショックに比べれば、ずいぶんと気持ちは楽だった。

売却に備えて母の施設の近くにマンションを借り、そこを日本での拠点とし始めていたことも影響しているに違いない。

母の反応にしてもけっこうあっさりとしたもので、喪失感よりも兄や私への労いの気持ちの方が勝っていた。施設での生活に慣れて、心身の状態が安定していることも幸いしているのだろう。

*****

それにしても一つの家を「仕舞う」というのは、なんと大変な作業だろうか。

現在、カナダで住んでいる家はもともと夫の両親のものだったのだが、彼らが施設に移ってから2年間、空き家のまま放置されていた。しかも義母は「いつでも帰れるように」と家財道具を全く処分していなかったので、私たちが所有権を得た後はその全ての片付け作業が夫と私に伸し掛かってきたのである。

あの時期、そこかしこの部屋のクローゼットを開けて夥しい衣服や書類を見つけては「やーめーてー」と何度、叫んだだろうか。ただでさえ整理整頓が嫌いな私にとっては身体的にも精神的にも拷問の様な日々だった。

おまけにほぼ並行して母の手伝いにも行かなければならなかったため、カナダでも日本でも何らかの「お片付け」に追われる身となった。

母は無類の「ファッショニスタ」なので、義母の何倍もの衣類を処分した記憶がある。そして祖父の関連資料や写真・書籍類も泣きたくなるほどの量が残されていた。少しずつ仕分けして、しかるべき納め先を探さなければならない。こう考えてみると実家の家仕舞いは10数年前から始まっていたのだ。

ビジネス・コンサルタントの長男によると「どんなプロジェクトでも最後の5パーセントが一番、大変」という定説があるそうだが、確かに当たっている気がする。もちろん作業を95パーセント終えるまでもしんどい道のりだが、母の家の場合で言うと、家具・食器類から庭の灯篭に至るまでを知り合いに裾分けして、納得のいく状態で明け渡すことができたのは期日の12時間前であった。解放感を覚えるのも無理はない。

次に日本に帰るのは2024年の年末の予定である。夢の中のように、飲んだ帰りについ実家の方に足が向いてしまわないかどうか、しっかりと見極めてこようと思う。