この一年(前編)

文・サンダース宮松敬子BC州、Victoria市

 よく使われる日本語の格言に“青天の霹靂(へきれき)”というのがある。「霹靂」とは「快晴の空に不意に轟く激しい雷の音」を意味するそうだ。何と難しい漢字かと驚く。だがその難しさゆえに、格言の意味する「急に起こる大変動や大事件」の大変さがより強く伝わってくるような気もする。

 これは私自身の私的な体験なのだが、一年前の初夏にまさにその「霹靂」がそれまでの夫と私のごく日常の「青天の日」に起こったのである。

2023年6月末日

 6月末日のこの日、私たち夫婦は「人生最後の大移動」と銘打って購入したショッピングセンターに近いコンドミニアムに引っ越した。

 夫はしばらく前に車の免許を返上したため、今は私だけが運転を続けている。だがいつかはそれが無理となる日が来るのを想定し、とにかく日々の買い物に便利な場所に居を移したのだ。

 朝から抜けるような青空が眩しかったその日は、まさに引っ越し日和で『これは幸先いいぞ!』と喜んだ。だが引っ越しには付き物の、予測よりはるかに多い荷物の運び出しに、運送屋は驚きはしたものの、次々に段ボールや家具をトラックに運び込んでくれた。

 こういう力仕事には不向きなシニアの女性が、廻りでウロチョロと動き廻っているのは足手まといである。それは十分承知であったし、近くに住む夫より10歳も若い義弟が手伝いに来てくれたこともあり、私は「Move over!」などと言われる前に家を出た。

     明日から即必要になる食料の買い出しや、細々とした用事を済ませ荷物を運び入れた引っ越し先に向かったのは午後であった。

 そのためこの空白だった時間帯に、一体何が起こったか私は知る由もなかった。だが事故が起こったことは、後から義弟が詳細を話してくれたことで知った。夫はそこここに置かれた運び出し前の荷物の間でつまずき、家具の鋭利な角にこめかみを打って倒れたとのこと。

 もちろん誰もが驚き、『救急車を呼ぼうか?』と騒いだとのことだが、本人は『I am alright!』を繰り返したため、誰もが忙しさに紛れ時間が過ぎたという。

 午後に私が引っ越し先で会った時も、額に血痕と青ずみが見られたものの、他に何も変わった様子はなかったため『たいしたことではなかったのだな・・・』と思ってしまったのだ。

 しかしそれは素人の判断であったことを、数日後に知ることとなった。

引っ越しに次ぐ入院

 引っ越し先の第一夜は、二人ともベッドをセットしてクタクタの体を横たえて爆睡したが、翌日からは待ったなしの山済みの荷物の整理が始まった。

 何はともあれ私にとっては、まず料理が可能になるようにキッチンの整理から始めたものの、居間、寝室、浴室など等の掃除や整理は果てしなくあり、それはもう永遠に続くかにさえ思われた。

 そんな日が3日ほど続いた真夜中の2時頃、夫が胸の痛みを訴えて唸っていたことで目が覚めた。数年前に心臓発作を起こし入院した経験があるため、私はすぐに救急に電話して病院に運ぶ手続きを取った。検査の結果が出るまでに一日近くかかったものの幸運にも夜には家に戻って来た。

 だが体調の変化はそれだけにとどまらなかった。更に4、5日後又もや真夜中に、用足しに行くためベッドから立ち上がった途端に、『バッタン!』という爆音と共に夫は床にうつ伏せに倒れてしまったのだ。

 あろうことか、今回もまた過日と同じ3人の救急隊員が訪れ、『Oh, No!』と言いながら手際よく救急病棟に運んでくれた。だが今度は先回とは異なり、そのまま4カ月の入院生活を余儀なくされたのである。

あちら側に行ってしまった夫

 幸いにも病院は引っ越し先から車で10分ほどのため、通院は苦ではなかった。とは言え、長びくことになりそうな入院の準備、担当医との病状に関する諸々の面談など等、加えてまだ山のように残っている引っ越し荷物の整理、住居変更に伴う各種のリーガルな書類の処理やその関係者たちとのアポ・・・。

 近くに住む娘が仕事先から長期の休暇を取り、日々早朝から手伝いに来てくれたことが大いなる助けになったものの、1日はあっという間に過ぎて行った。

 そんな中一番の心配事は、入院以来幻聴や幻想を見るようになってしまった夫の病状だった。

 幸いにも妻である私の名前を忘れることはなかった。だが会話の途中私の存在を全く忘れたかのように、急に目を虚ろにして腕を空中でぐるぐる廻しながら誰とも分からない人と永遠に話し続けたり・・・、誰かが私に銃口を向けて狙っているので早く病室から退避するよう『Get out!』 と大声で叫んだり・・・、薬の時間に来る看護師の腕を引っ張って抵抗したり・・・。

 また病室に電話を置くことは禁止されているため、携帯を差し入れして欲しいとせがんだり・・・。仕方なくTVのコンバーターを持参して渡したところ、それを受話器と思い込み耳にあてて友人と話しているかの如く振舞ったり・・・。

(写真)空中に腕を伸ばし誰とも分からない人々と長々と話している夫

 目の前に繰り広げられるこうした夫の異常行動に、私は驚きと共に底知れない不安と憔悴感をいだかずにいられなかった。

尿道結石の手術

 私が移住した当時(1973年)カナダは世界に冠たる医療の充実した国であったのだが、残念ながらそれは「今は昔の夢物語」になってしまっている。特にBC州では医者不足が深刻で、係りつけの医者を持たない人は5人に一人で100万人もいるのである。

 そんな社会事情はあるものの、夫の入院先の病院ではそれなりの治療を施してくれた。しかし担当医に会うのは容易なことではなく、たまたま夫を見舞いに行っている折りに診察に廻っている医者に出会うことで、病状を聞くことが出来るといった具合であった。しかしその医者たちも『今検査に出しているのでもう少し様子を見てから』と言う返事ばかりで、なにやら厚着をした服の上から痒い所を搔いているようなもどかしさを何度も感じたものだ。

 だが考えてみると、夫はすでにあった認知症の症状が徐々に悪化したわけではなく“急性”であったため、医者たちも『前と比べ事故以来こうなっている』とか『その進行状況はこうだ』というようなはっきりとした回答は出来なかったのだろうと思う。

 加えて日進月歩の医学界ではあるが、人間の脳内のことは今だに未知の部分が多い領域であると言われており、きっちりとした判断が下せなかったのではないかと考える。

 しかしそれらの検査の途中で尿路結石が発見され、緊急に手術が施行された。もしかして、これは何らかの形で病状の進行を食い止める一助になったのかもしれないとふと素人判断をしてみる。丁度糖尿病と認知症の間には深い関係があるのと同じように。

病棟をたらい廻し

 入院中には病室を何回か移動させられ、3人、4人の相部屋や個室などの時もあったが、最終的には二人部屋に落ち着いた。幸いにも同年代の気の合う患者であったため、夫は話し相手がいることで気が紛れたようであった。

 だが医師の診察の時以外は、ナースステーションに待機している看護師たちが異常に即気付くように、どの病室もドアが一日中開いている。そのため誰でもが出入り可能で、時々他の部屋からの患者が侵入し、他人の所持品を持ち出すことがあり、夫も電気髭剃りや着替えを盗まれるなどの被害にあった。

 また長引く入院中には誰にでも起こりうることだろうが、栄養を考えての食事ではあっても、毎日の似たようなメニューに飽きが来るのは当然だろう。時間が許す限り私は食事時間に併せて面会に訪れ、一口でも多く食べるように仕向けたが、時にはほとんど食べ物に手を付けないこともあった。が一方食後であっても、私が日本食などを差し入れるとアッと言う間に平らげてしまった。

 病院の対応で嬉しかったのは、脳に障害のある患者たちの日常を少しでも活性化しようと試みている点であった。

 それは時間や日ごとに変わる各種のグループ・アクティビティで、軽いエクササイズを初め、トリビア・クエッションと称するクイズ、古い映画の上映、コーラスのクラスなど等。その都度インストラクターがやって来ては、患者たちが興味をそそるように仕向けてくれるのである。

 もちろんそれぞれの患者の症状によるのだが、中にはクイズの答えなどが分かると、辺り構わず大声で返答し大声で満足そうに笑ったりする患者がいたりもする。夫は顔見知りではないそうした患者たちと共に、言ってみれば“子供っぽい”アクティビティを一緒にするなどにはほとんど興味を示さなかった。要するに『馬鹿馬鹿しい!』というわけである。

 (後編に続く)