この一年(後編)

文・サンダース宮松敬子 

(前編はこちら

退院への準備

 一方家族や親せきの者たちも、出来る限り夫の記憶力の回復に努力を重ねた。子供の頃の写真を持参し、ありし日の思い出を快復させる一助にしたり、SUDOKUやWORDの練習帳を持ち込こんだり、80歳の誕生日にはケーキを買いナースたちと共に祝ったりもした。 

 入院4ヶ月ほどの間には、こうして色々な努力を試み、また医者たちによる各種の治療が施された。それによって驚くほどの快復をみたものの、では以前のように日常生活に支障のないほどに良くなったかといえば、それにはまだ今一と思えた。

 とは言え、その頃になって担当医から『そろそろ退院を考えてはどうか』と打診され、戻ってからの家庭内の状況などを調査された。つまり帰宅したら誰が中心になって面倒を見るか、家族以外からの手助けは必要か、それはどの程度のもので、何を望むかなど等・・・。

 しかし私にとっては、すべてが初めての経験で大いなる不安があり、実際に自宅介護を始めて見なければ分からないことだらけであった。だが病院側としては完治とは言えないものの、出来るうる限りの治療は施したわけで、症状が後退はしていないと見ての判断であった。

 以後は薬を中心に状態を見極めながら、2,3カ月に一度担当医とのミーティングを持つという条件を提示してきたのだ。

Retrolisthesis(脊椎すべり症)

 私は夫とは同年齢なのだが、健康にはかなり気を使っているせいか傍から見ると一見元気そうに見える。だが今回ばかりは心身の無理がたたったようで、ある時期からベッドに横になり少しでも脚を動かすと、臀部から背中にかけて異常なほどの激痛が走るようになってしまった。

 忙しい日々の合間に何回かマッサージに通うなどしたものの、一向に良くならずXrayを撮ったところ“retrolisthesis”と診断された。何やら舌を噛みそうな病名だが、日本語では“脊椎すべり症”と言うことが分かった。

 私は仕事柄コンピューターに張り付いて原稿を書く仕事をしてきたため、腰痛は持病と諦めていた。しかし引っ越しだけでも大仕事のうえ諸々の心労が重なったことで、それが大々的に悪化。初めて持病に付いた病名を知り驚かされた。

 だがそんな個人的な事情とは関係なく、夫は入院4カ月後の11月上旬に退院することが決まった。2日ほどの体験帰宅と言う試みはしてくれたが、それが無事に終わった後は完全退院となった。

 完治ではないことは医者も承知ながら、何はともあれこの4ヶ月間の快復は驚くべきものであった。私としては一体どんな病状経過があったのか、何が原因だったのかを知りたかったのだが、重ねた検査を終えてもはっきりとした病名はなく“Acute Dementia(急性痴呆症)”と言う以外医者も分からずじまいであった。

 だが医者は、昔計った夫の平均IQは140で『すごく体調の良い時には200までいったこともある』などという話を耳にしたことで、『もしかしたら彼のIQの高さに起因しているのかもしれない』と首をかしげながら言う。もちろんそれはあくまでも“仮定と想像”の域を出ないものであるのだが・・・。

そして一年が経った

退院9カ月目。ビクトリア市のダウンタウンにて。完治とは言えないまでも一応元気になった夫

 

さてそうして夫が退院してから今年の11月初旬で丸一年を迎えた。

 夫にとっては、数日しか過ごさなかった引っ越し先は新居である。そのため私物でさえ、何処に何があるのかを覚えるのは容易でなくいら立つことが多かった。だが日常の行動(シャワーをはじめとする健康管理、時間によって摂取する飲み薬の管理など等)は自分で忘れずに出来ている。

 しかし今思い出してもぞっとする最たる出来事の一つは、長年手足のごとく屈指していた夫の数台あったコンピューターが、引っ越し直前にクラッシュしてしまったことだった。事故以前多くのことは、それ等の中と夫の頭の中でのみ処理されていたため、重要書類の幾つかを見つけることが出来ず、個々の会社にそれぞれ問い合わせることに膨大な時間が費やされたのだ。

 まだ入院当初、この先の病状がどのように進行していくのかまるで予測が出来なかった頃、手元にある山のような書類は娘と共に出来る限り再整理した。だが見つからない幾つもの案件について、もしかして覚えているかと退院後に夫に訊ねたが、それはすでに忘却の彼方に消え去っていた。

50年と言う歳月の重さ

 今になって、否、今になったからこそ正直に白状すれば、私は夫が入院し始めた頃『こうして意識が混濁し混迷し続けるのならこのまま安らかに逝って欲しい・・・』との思いが幾度となく頭をよぎった。

 それは私が知る限りの夫の人生を冷静に振り返ってみると、かなり自由奔放の人生を送って来たように思えたからだ。

 大好きなオペラ、バレー、ミュージカル、クラッシック/ジャズコンサート、演劇、朗読劇など等、地元はもちろんのこと、世界から集まる最高のエンタテイナーたちと出会い、その舞台を立ち上げる裏方の仕事に没入し、カナダ、米国、ヨーロッパや中国にも脚を伸ばした。自分の能力を十分に発揮できたキャリアを持ち、仲間たちからは『He is genius!』などと言われたものだった。

 また余暇には好きな機械いじりが高じ、小さいながら飛行機を次々に二機所有し、トロント郊外にはそれを収める格納庫を持ち、BMWのオートバイでダウンタウンの拙宅から通い続けて自由時間を謳歌していた。

 一方私はと言えば、幾つもの愛の遍歴の後に夫に出会った時、『ああ、この人に巡り合えるまで、待っていてよかった!』と心底思ったのを今でも鮮明に覚えている。そう思えたまさにその日から私たちは共に暮らし始め、来年で半世紀、結婚して49年目になる。   

 言うまでもないことだが、決していつも順風満帆であったわけではない。数えきれない山河を超えもした。ままならぬ人生を生きて来たものだとつくづく思う。

 だがその長い道のりを二人で超えたがゆえに、退院して一年後の今は、最後まで二人で生きて行こうと思えるようになっている自分を発見する。

 

 と言いながらも、正直私の精神的な動揺は時にいまだに大きいことを付け加えておこう。それは『あれ程シャープだった夫が・・・』と憐憫の想いを感じながらも、私自身が疲れている時には爆発することがあるのだ。いつまで経っても人間的に成長しない自分に呆れてしまうのだが・・・。

 これはあくまでも私個人の体験談ではあるものの、もし同じようなことが、生きとし生ける者の誰に起こっても不思議ではないことを記しておきたい。