「思い込み」の危険性
文・野口洋美
秋が訪れ、今年も日本を訪れた。2020年以来、夏はカナダ、冬は日本という二拠点生活が続いているのだが、どちらにも「ただいま」と戻れる生活は悪くない。
さて、久しぶりに会った友人が、「長い間営んできた飲食店をたたみ、自宅を兼ねた店舗を売却して引退することになった」と話してくれた。だが「気になることがあってね」とはじめた友人の話に「思い込み」の危険性を見たような気がした。本人の許可の下、以下に紹介する。
友人の店でしばらく働いていた女性(仮にA子とする)は、今も近所で暮らしている。ときおり家族や友人らと店にやってくるのだが、友人と二人きりのタイミングで「このお店、くださいね」「ここもらいます」などと繰り返す。その都度「あげません」と答えてきたのだが、次第に冗談では済まされない出来事が目立つようになった。
A子が「『女将になって欲しいと言われている』と吹聴している」と知り合いから聞かされた時は、「女将(おかみ)なんて言葉、私が使ったことある?」と冗談に任せた。しかし、店にやってきたA子の高校生の息子に「ゆくゆく僕らはここに住むことになってる、ってウチのお母さんが言ってるけど、どういうこと?」とたずねられた時には、「それはないよ。お母さんの悪い冗談だと思ってね」と答えつつも違和感が膨らんだ。
コトの深刻さが気になりはじめた友人は、「ここがあなたのものになることはないよ」とA子をたしなめたのだが「いいえ、もらいます」と即答。
どうやら「店をもらう」は、A子の中で「完結した世界観」となっているらしい。この根拠のない世界観のことを人々は「思い込み」と呼んでいる。
「思い込みの激しい人」は、「自分の意見は全て正しく、それに反する意見は全て悪である」と信じているという。このような視野の狭さ、柔軟性のなさは、たやすく改善されるものではない。なぜなら彼らは、自分に改善しなければならないところが存在すると思っていないのだから。
そもそも、住民の誰もが顔見知りであり、さらにそこに暮らす人々の多くが飲食業などのサービス業に携わっている地域社会では、独特の人間関係が生まれてくるらしい。お客さんがご近所さんだったり、子供の同級生家族だったりする複数の人間関係の中で馴れ合いを避けるためには、自分の立ち位置を把握し、きちんと線引きをする毅然さが必要だろう。
友人は、一貫してその線引きをしてきたと自負していたので、この「ふって湧いたような思い込み被害」は相当ストレスになっていると話す。
信頼できる知人に相談しても「そんなバカなことを言う人がいるわけない」と信じないか、「それはあなたの被害妄想だ」とたしなめるかのどちらかで、この頃では、「私のせい?」と悩むようになったという。
「あなたは何も悪くない、他人の勝手な思い込みに責任を感じることはない」と、私は思わず声を上げた。
DV被害者の多くは「ぶたれるのは私が悪いからだ」と相手の行為を自分のせいだと感じるようになると聞く。また、事故や事件の被害者やその家族は「私がもっと気をつけていれば…」と後悔の念に苛まれるという。
このように「自分を責めるパターン」に陥りかけたときは、「私は悪くない」と自分自身に言い聞かせることがとても大切だ。

この話は、作り話でも被害妄想でもなく、正しく恐れるべき現実だと思う。思い込みの典型であるストーカー行為がエスカレートして傷害事件につながる例は後を立たない。今後売却が成立し「店をもらえなかった」A子が、あってはならない「行動」を引き起こすかもしれない。
「他人の思い込みがもたらす被害」は「貰い事故」のようなものだ。どんなに気をつけていても起きる時には起きてしまう。今はただ、友人の引退計画が滞りなく進むよう祈るのみだ。
